■躊躇ったら命取りに──ジェイソン・ボーンと孤独な戦い |
マッド・デイモンの『ボーン・アイデンティティー』に始まるシリーズ3本は、いずれも映画館で封切りを、その後DVDでもそれぞれ何度か観てきた。2002年公開『ボーン・アイデンティティー』(本作登場の衝撃は忘れられてはならないだろう)、2004年『ボーン・スプレマシー』、2007年『ボーン・アルティメイタム』。
当然、今回の第4作『ジェイソン・ボーン』についても劇場に走らないはずはない。オープニングからエンドロールまで、このシリーズ独特のアップ・テンポのBGMに気持ちを急き立てられ、文字通り息つく暇もない場面展開の緊迫度においては、過去の3作を超えている。
ただし、前作から9年、流石にジェイソン・ボーンも老いたか、と思わせられる場面がアクション・シーンの最後に用意されていた。彼が──あのジェイソン・ボーンが!──自分を究極まで追い詰めた黒幕(元上司)に相対し、その首根っこを押さえて銃を突きつけながら、引き金を引くことを躊躇うのだ。それが、自分の父親についての──実際に聞けばどうということもない──「真実」が初めて明らかにされる場面だとしても、相手の釈明を聞き入れていれば当然隙ができ、駆け付けた黒幕のボディガードに撃たれてしまうことになる。一撃必殺──それを見失ったら、最早ジェイソン・ボーンではない。
そもそも初発の『ボーン・アイデンティティー』からして、銃で撃たれて記憶をなくした後、ジェイソン・ボーンは自分が何者なのかを探し求めてきた。様々な思惑や陰謀に巻き込まれ、何度も優秀で屈強な刺客に襲われるが、その都度返り討ちにしてきた。
このシリーズ、主人公の造形的魅力は、今更言うまでもなく格闘シーンの迫真力とスタイリッシュさにある。そしてそれらは、一瞬の間における機智があってこそ。物語が始まるやすぐさま容赦のない戦いが始まり、「自分が一体誰なのか」はさて措きともかく眼の前の敵を倒さなければならない、生き延びるために──というのは、他ならない人間の生そのものとパラレルではないか。私はそう思ってきた。
(勿論人殺しが仕事でなくとも)出会い頭の瞬間の判断(果断さ)、使える物は何でも(雑誌ですら丸めて武器として)利用する、用事が終われば現場に長居無用、そして何が待っていようが先に進む(行動)しかない──この映画からも学ぶことがたくさんあった。
そのジェイソンがドジを踏み、撃たれてしまう。もうこのシリーズも終わりかな、と思わせられた直後、やはりどこまでも一匹狼として生きるほかないジェイソン・ボーンを暗示して、映画は終わる。
まだ続けるつもりなのか──。私には、後ろ姿のジェイソン・ボーンが、次第にリチャード・キンブルに見えてきた。私たちは、追い求めているのか、それとも逃げ続けているのか。
そして想う。世界には、そもそもリチャード・キンブル的(逃亡者、少数派)でしかありえない人間と、最初からジェラード警部に自分を重ねて何の屈託もない人間との、二種類が居る。二人が生きている世界は勿論異なるだろう。
●5日 前田年昭氏と組継ぎ本
フリー編集者の友人・前田年昭氏が「組継(くみつ)ぎ本」のワークショップをやるというので参加した。
組継ぎ本というのは、「ノリもステープラー(ホチキス)もセロテープも使わず、素材としての紙だけを組み継ぐ製本技法」であると(前田年昭「組継ぎ本々義」)。前田氏はその考案者。
具体的には、チラシ左上部のイラストのごとく、綴じ合わせたい4ページ単位の紙を規則的に二組に分け、紙の折り目部分に片方は上下に、もう片方は中央部にカッターで切れ込みを入れる。その二組を順次組み継いでいくことから「組継ぎ本」。段ボールでもできるとのこと。
根気さえあれば、構造的には1000ページでも可能だろう。問題は、綴じた後にページ順となるよう面付け(ページ配置)を考えなければならない(ネットで面付け計算機も出ているようだ)。
この組継ぎ本、手作業としては面白いかも知れない(面倒くさがりで雑な私は、駄目)。ただし、糊もホチキスもセロテープも使わないにしろ、では一体、何のためにそれほど細かい作業をして、プリントした紙を綴じなければいけないか、という「必要性」への素朴な疑問は残る。どことなく──そもそも “紙” すら不要な──電子書籍への反逆(それには大いに賛同)が感じられる。
集まっていた20人程は、やはりアートやデザイン系の人たちのようだった。
友人と言っても、前田氏とはまだ8カ月程の付き合い。よく分かっているとは言い難いが、氏素性や来歴はともかく、この──昨年末、巡り会った女生と暮らすために東京での暮らしを捨てて福岡へやって来たばかりの(とだけは聞いている)──入道坊主の如き人物は捨てておけない気がしている。第一、未だに、「今の中国共産党は駄目だが、共産主義は信奉している」と言う人間は貴重だ(ちなみに私は、国家・集団主義が生まれつき駄目→気分はもう、 焼き打ち──黒塗り街宣車、アナーキズム、そして週替わりの夕暮れ[9.27/10.2])。孤独な──かどうか、真実は知らない──戦いをやっている人間がここにも居る。
「組継ぎ本」講義中の前田年昭氏
主催・会場はスタヂオポンテ。福岡県立美術館の敷地を見下ろすマンションの一室。これは、なかなかないアングルだ。
[11/19最終]