■二日間の京都紅葉三昧 |
私の京都体験は、ちょっと下車して駅前を眺めただけという程度のを除けば、中学校の修学旅行、大学卒業前だったかの一泊行、今度が三度目だ。
勿論セレクトした上でのことだが、以下、私でもゲップが出るほど紅葉写真が並ぶので、最初に、後で出したら埋もれてしまいそうな2点を掲げておこう。
東福寺それに銀閣寺境内の小さな一樹。何でも大きければいい、というものでないことの証左。


●東福寺
「橋の上では写真撮影は禁止です、立ち止まらないで下さい」などマイクでの誘導もある境内の橋上やちょっとした渓谷部分(洗玉澗)の人出はラッシュ時の東京の国電並み。最初に訪れた地なので、「これが京都の紅葉見物か!」と圧倒されたのは確か。
後で振り返ると、庭全体のスケールと樹木のヴァラエティはやはり大したもの。



以後もそうだったが、ごく普通に肩をぶつける傍の人間の多くが外国人。アジア系、欧米系、中東系らしきも。流石、ヴェネチアと世界一、二位を争う観光地だと改めて感心(ちなみに私のヴェネチア紀行→イタリアの光と影──ローマ・フィレンツェ・ヴェネチア・ミラノ1週間の旅)。
外国人の中でもとりわけ韓国・中国・台湾の人は写真撮影がとても好きだ。人前で、かつての日活、吉永小百合・浜田光男のごとき、傍から見ているほうが恥ずかしいようなポーズをとるのも平気。そのため、人の列がなかなか先に進まない。


付け焼き刃の国粋民族主義に取り憑かれた輩には理解し難いだろうが、何を美しいと思うか──それは民族や国家に関わりのないこと。心も同じくで、要はただ一人で立っているかどうか、というだけ(だから私は、天から自民党に用事は無い。いや、そもそも政治屋どもに、と言うべきか。現今それは、知性も品性もなく、本来の仕事もしない)。


●銀閣寺
確か中学の修学旅行でも行かなかったので、今回が初めて。取り残されて、もの寂びたようなくすみ具合がなかなかいい。


●「哲学の道」沿いに
大学卒業前だったか、一方的に相手から「友人」関係を押し付けられたような、今風に言えば妙にキャラが立った旧同級生(入学は同期だが、私は結核で3年生途中から2年留年)を訪ね、二人でこの道をそぞろ歩いたことがある。
→参考・結核入院記:「胸」に潜めた座標軸──川上三太郎氏講演を聴いて
その彼とは入学時に同じクラスで、ロックアウト続きでろくに講義のない時期、何かの議論が長引いた末、私の下宿に彼が泊まる形に。そういった年齢にありがちな自意識の過剰さに嫌気がさして、「お前みたいな奴は嫌いだ」と私が言うと、「そんなことを言われたのは初めてだ」と彼は本当に泣き出した。そうだろう、私もそんなことを言ったのは初めてだった(だけれど、男が人前で泣くな!)。
はて、卒業したてのその頃、彼は何故、京都に居たのだろうか? 気障で自意識過剰でセンチメンタルな奴に似合う街……だからか。最早懐かしい、「神田川」が歌われ『同棲時代』が読まれ、アン・ノン族がうろつき回っていた時代。

今回、意想外だったのは、「哲学の道」が、標高のやや高い山裾を巡っていたことだ。最後は少し街を見下ろす位置に来る。この明かりは、何かの店か個人宅か。宵闇とのマッチングですら、何だか京都風。

●永観堂(禅林寺)
桜見物もそうだが、紅葉についてもライトアップが必要だろうか。まあ、夜でも紅葉を観たい人がいるかも知れないし、ともかく何でも「祭り」になれば寺社も潤うだろう。けれどね、満開の桜はライトアップにより、その物狂いの如き春の熱気はより鮮明になりはするが、紅葉を煌々と照らすのは、ちと違うのではないか。
いや、これは、(自然の単なる摂理を無視して)紅葉は樹木の滅ぶ姿だ、などと私が未だ思っているせいかも。その点で、本尊の化身である不動明王にちなんだ青い色のライトアップを施されているという青蓮院門跡を通りすがりに見掛け、ゲッと思ったが、ここは、どこまでも保守的志向に走らず、前田年昭氏(→躊躇ったら命取りに──ジェイソン・ボーンと孤独な戦い)に倣って「そんな私では、パンク(もしくは、かぶき)精神に反する」とかなんとか自省すべきところかも知れない。
青く照らされた紅葉……! パンク即ちゲテモノ趣味だと言ってしまえば……京都には似合うのではないか。何しろ、中心部にあの塔を鎮座させた街だもの。

●ねねの道・石塀小路付近
近くの高台寺では、ライトアップ参拝は5時入苑。どうやら昔の2〜3本立て映画館のように、昼間入苑の参拝者と総入れ替えする決まりのようで、夕刻5時前時点で蜿々(えんえん)と人が並び、その末尾では最低1時間待ちと聞いた。私には、そこまで待つ理由は無論無い。

●常寂光寺
午前中に行ったのが良かったようで、東福寺とは全く人出が違う。ここも、最初、周囲の観光客は外国人ばかりという観があった。やはり写真撮影にとても熱心だ。小さな池に零れ落ちている紅い葉を、低い視線でクローズアップさせて捉えようとする撮影姿勢に、「日本情緒」を教えられている気分になる。


「モミジで知られている」とガイドブックにあったが、まさにその通りであった。そのスケールの適当さ、全体の纏まり具合──今回訪ねた寺社紅葉では一番気に入った。




●竹林の道
一応、往路の新幹線車中にガイドブックで見てはいたが、実際ここの竹の様子には感心。自分が物語中の人物になったよう気がする。

●天龍寺
さて、世界遺産の寺。境内のあちこちに老若男女、たくさんの民族が溢れている。要するにここは、広大な借景の中にある寺だろう。
紅葉に関してだけで言うと、常寂光寺─天龍寺という順序で観覧したのが良かった。午前中ここに来ると、敷地の宏大さもあって必要以上に時間を費消することになる。


●桂川・渡月橋より

橋を渡る手前でデジカメのバッテリーが切れた。それでなくとも私はとっくに、一眼レフカメラを持ってこなかったことを悔やんでいたが。
●清水寺
京都と言えば真っ先にこの寺を思い浮かべるのは、間違いなく修学旅行のせいだろう。携帯(スマホではない)での撮影。ふと気づくと、やっぱり外国人旅行者に取り囲まれていた。多分、「一日着物体験ツアー」なんだろう、和装した外国人女性も多い。アジア系女性はほとんど区別がつかない。

あと、初めて行ったが、京都の台所といわれる錦市場も面白く、バッテリー切れが残念。
この国の旅の大定番、あまりにもの月並みさに、生きている間に一度行けばいい、というぐらいに思っていた京都。今回足を踏み入れたのは、やはり紅葉観たさ。
泊まったホテルが中心部近くにあったことで、この街が、なだらかな傾斜ながらほぼ四囲を山に囲まれた、まことに適当な範囲を擁する盆地であるという実感を得ることができた。これぐらいの規模の地において、やれ蹶起(けっき)だ焼き討ちだ攘夷だとやっていたわけだ。
そして、京都の観光は即ち寺社巡りだということ。その豪壮さに改めて驚き、それほど著名でなくともいずこもそれなりの構えと歴史を有していることに、やはり(時々の権力と結びついた)歴史を感じさせられた。
あちこちの参道の賑わいも観たし、たくさんのお土産物も見た。感心したのは、店の構えや客あしらいや品物・味が、いずれも堂に入ってなかなかのものだということ。日本一の古都で商われているスーベニール──年季が入っていて当然なんだろう。
[12/1最終]