■銃を持ったまま逃げろ!──三島由紀夫・丸山真男そして竹田青嗣 |
●銃を持ったまま逃げろ!── “政治的” ロマンティシズムと憧れとしてのリアリズム
三島由紀夫が自衛隊の市谷駐屯地で割腹自殺したのは、私が18歳の誕生日を迎える二日前のことだった。翌日の授業の時、政経の教師はそのことについてどう思うかと、一人一人に聞いた。「気持ちの悪い死に方だ」と自分が言ったことを私は覚えている。
2年後の1972年、浅間山荘事件のテレビ中継を観たのは、大学の休暇中に通っていた自動車教習所の食堂においてであった。あのクレーンに吊るされた巨大な鉛の球が、一見のどかにかつ決然と壊したものは──壊されるべくして、だったが──山荘そのものだけでなかったということにはっきりと思い至ったのは、後年のことだ。その時はただ、食べていたカレーライスが不味くなっただけだった。
よく耳にする言い方だが、この二つの事件は私にとって決定的だった。三島事件と浅間山荘事件を一つのエポックとする学生運動とは、大学の専攻において私に政治学志望の意志をかためさせた。当時は、ともかくリアリスティックなもので自己を鍛えよう、という心持ちだった。
三島については、大学に入った後、特に胸を悪くして長期入院という事態になった時、その主要な作品を読み通し、甘美な物語をそれなりに楽しんだが、今となっては懐かしい評論家・渡辺京二が「張り扇のごとし」と譬えたような、きらびやかだが空疎な文体が最後には鼻についてしかたなかった。
“遺作” である『豊饒の海』四部作の中には、作者のああいった死に方そのものを撃つ考え方が提示されていることに意外な感を持ったが、それとて、彼にとって作中の登場人物はすべて作家の思いのままに──例えば、主人公と対比をなす個性として登場させられたとしても、つまるところ(作家の)「決断主義」により乗り超えられるべき存在として──操られるべきもので、結局、三島の文学はどこまでいっても「作り物」でしかない、という感触を私に残した。
「作り物としての文学」を紡ぎつづけた挙句、自死という形で生の完結まで “デザイン” して見せることで──『豊饒の海』は『新潮』に連載されたものだが、その最終回は自死当日に編集部に渡されたらしい──、三島は自己の創作と人生とを分離不可能な──「批評」を許さない──地点にまで持ち去り高めようとした、と私には思えた。 “輝ける” 死によって “腐った” 生を照らし返すことでしか、この自分のロマンティシズムは全うされない、とでもいうように。
「赫々とした日輪に包まれての自決」などというイメージは私には無縁のものだが、三島の死から呼び覚まされたもの──例えば、誰かに心底から理解されたいという願望──、そういったロマンティシズムにおける “類型” のようなものをやはり持っているということについては、決して自分に対して否定できないと思った。だが、その果てにあれほどの大仰な死を演じなければそれは完結もせず、また自己の生も輝くことはないのか……。
つまり、自己のロマンティシズムを一体どう扱えばいいのか、というのが、三島事件が私にもたらしたアポリアだった。それを殺さなければ “大人” にはなれないのか、はたまた生かしつづけるとして三島のようでない道があるのか──。いわば、他人が後生大事にしているものを嘲笑った次の瞬間、自分が握りしめていたものに目をやってしまった時の不幸さ……。いずれにしろ、そこから先は自分自身が生きて示すしかなかった。
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そして、全共闘運動。結果として私は、祭りがほぼ終わった後にようやくそこに駆けつけたような世代だったが、ある種のラジカリズムや反社会的な気分は共有できても、既に学園サークルと化していた “彼ら” とは、行動やスタイルにおいて根本的にはなじめなかった。もちろん「革命」なんて一瞬たりとも信じたことはなかったが、「遅れてきた青年」たるその頃の私は、倒すべきものの息の根を間違いなく止めるためには時間がかかっても一番効果的な理論と方法とを学ぶべきだ、という思いに駆られていて、そのことがより政治学を志向する気持ちを堅固にさせた。
ひとことで言うなら、まずリアリストたるべきこと──これが当時の私の不文律だった。もちろんそれは、自己の資質を承知しているからこその選択でもあった。
曲がりなりにも大学を卒えて社会人となったが、社会的回路へとそのまま直截につなぐことをとりあえず断念しつつ、自己のロマンティシズムを自分に与えられた “現場” でともかく鍛えつづけること──そういった、ともすれば細りがちな孤独な気分に対し同時代の言葉で真正面から応えてくれる書き手たちに出会うのに、それから10年以上かかった。
今振り返っても、当時の、ただシャドゥ・ボクシングに精進しているだけのような孤独さは、例えば、
百八十度転向して大人になろうとする人たちというのは、単純にいえば、今までがあまりに幼稚だったんですよ。そんな幼稚なガキがいること自体信じられない。笠井潔から大塚英志に至るまで、極左ロマン派に走ったとか、サブカルチャーにのめりこんだとか、そういう単純な連中が、連合赤軍事件なり宮崎勤事件なりで突然目覚めて、責任ある大人としてこの現実を引き受けなければならないなんて言い出したりする。それは結構だけれど、本当はその程度のことは中学か高校くらいで卒業しておいてもらいたい。(中沢新一・浅田彰対談「オウムとは何だったのか」、『「オウム事件」をどう読むか』文藝春秋)
といった浅田彰の発言なんぞに言い当てられている気は全くしない。そういった言説には、何かひどく癇に触るザラザラとしたものを感じるだけだ。どちらが幼稚でどちらがただのオッサンかとか、どちらがロマンティストでどちらがリアリストかとか、そんなことを他人と比較する地平に立とうとする気持ちは、私には今でも縁遠い。そういう話の次元で言うなら、「極左ロマン派」にもなれず、「サブカルチャー」にのめりこむこともできなかった私は、ただ「傘がない」(井上陽水)世界で、濡れながら佇んでいるほかなかったのだ。
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ところで最近、丸山真男の『日本の思想』をほぼ20年振りに読み返した。まっさらな気持ちで向かいたかったので、傍線だらけの手持ちの分でなく、新しく買い入れたものを読んだのだが、議論の的をはずさない論理性、文章に対する造形力、細かい註の隅々にも行き渡る該博な知識、鮮明な用語法と的確な比喩、カギや傍点一つも疎かにしない完璧主義、そして、不幸にして、30年以上も前に書かれたものとは思えない、取り上げられた話題の現代性──。
かつての「政治学徒」たる私は、これまた記憶に鮮明な吉本隆明の、
ここには思想家というには、あまりにやせこけた、筋ばかりの人間の像がたっている。学者というには、あまりに生々しい問題意識をつらぬいている人間の像がたっている。かれは思想家でもなければ、政治思想史の学者でもない。この奇異な存在は、いったい何ものなのか?(「丸山眞男論」、『吉本隆明全著作集 12』)
という言葉を思い返しながらも、ほとんど新鮮な気持ちで読み通すことができた。例えば丸山は、日本における、憲法やその他法的=政治的制度だけでなく「思想や理論を既製品として取り扱う考え方」を指摘し、
「である」論理と「する」論理、「である」社会と「する」社会との対照は、ものごとの「状態」の側面を重視するかそれとも運動や過程にアクセントを置くのかのちがいでもあるわけです。「よい」制度からはよい働きが、「悪い」制度からは悪い作用が必然的に流れ出るという見方の背後には、理想的な社会や制度が一つの「模範的」な状態として、いわば青写真のように静止的に想定されているからです。
丸山が、そういった概念的図式や見取図を提示して「日本の思想」を斬ってしまえばそれでよしとするのでないことは、
(将来に向かっての)可能性においてとらえるということは、たとえば、完結した思想として、あるいは思想の実践的結果としては「反動」的なもののなかにも「革命的」な契機を、服従の教説のなかにも反逆の契機を、諦観のなかにも能動的契機を、あるいはそれぞれの逆を見出していくような思想史的方法である。
という「あとがき」の文章からも看て取れる。
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今回読み直して私が再認識したのは、ステレオタイプ化されるのを恐れず、様々な人間事象を対照的な二つの “型” に分け、──自己の力点をどちらに置くかは別として──そこでの大いなる議論を促すといった啓蒙的手法で丸山が結果として示して見せたのは、最早死語と化している「弁証法的」な思考方法ということではなかったか、ということだ。丸山は、日本におけるマルクス主義受容に触れて、
マルクス主義が日本でこのように巨大な思想史的意義をもっているということ自体にまた悲劇と不幸の因があった。近世合理主義の論理とキリスト教の良心と近代科学の実験操作の精神と──現代西欧思想の伝統でありマルクス主義にも陰に陽に前提されているこの三者の任務をはたしてどのような世界観が一手に兼ねて実現できようか。
と記しているが、それになぞらえて言うならば、私には、議論の土俵なきこの日本において、まずその座標軸の必要性を訴えつつ、「弁証法的に社会・思想を科学すること」──その困難かつ急務な課題を、結果として「一手に」引き受けざるを得なかった丸山真男の姿が、今はよく見える。
そういった丸山真男という “思想史家” の歴史的位相を、そしてそこでの精緻かつリアルな「日本の思想」の分析を、「大衆」や「異界」や「辺境」や「外部」などを次々と発見しては打ち棄ててきた “現代の思想” は、本当になんなく乗り超えてきたのだろうか、という疑問が私にはずっとある。
思想のあり方について丸山が、
ちょうど犯人をさがすときに、犯人を見たという人々の印象からモンタージュ写真を作成するような操作が学問の方法の上でも考えられなければならない。
原理原則から天降るのでなしに、いわば映画の手法のように、現実にある多様なイメージを素材として、それを積み重ねながら観客に一つの論理なりアイデアなどを感得させる方法を、もっと研究することが大事ではないかと思います。
と言っている箇所がある。映画や音楽についての文章も数多くある丸山らしい発言だが──20年以前の読書では、こういう文章に私はほとんど注目しなかった──、彼がここで語っているのは、「思想の手法」ではなく、「思想の伝え方の手法」なのである。イメージが先行する現代社会において、自己の思想を伝えていこうとする場合の “イメージ戦略” ──イメージの「編み変え」──を言っているのである。当時とは比べようもない情報社会となった今日、そういった手法がもっと切実に求められているように私には思える。
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丸山真男の文からいくつかの断片を引用したのは、ほかでもなく私が竹田青嗣と出会った契機には、ロマンティシズムとリアリズムとの相剋を自分の生の経験の内にいかに捉え返していくか、という “最初の問題” を私がずっと抱え持ってきたことに由来がある、ということを、二人の “思想家” の片言(へんげん)からも、今私自身が納得するからだ。
確かに、丸山には、最早神話的とも言える「(知識人的)主体」や「全体性を志向する人間」といった像が信じられているように見える。だが、「政治過程における非合理的要素」を重く見、完結したものとして対象化するのでなく「状況や社会の操作可能性」と丸山眞男が言う時、私はすぐさま、「社会を変革する回路──その可能性と条件──が全く見失われた時に人は絶望する」という竹田青嗣の言葉を思い出してしまう。
私は結局、学問としての政治学を齧る中で、「政治は必要悪」という根深い “通俗リアリズム”──それは裏返しの政治的ロマンティシズムだろう──を超え得る視点をほとんど見出せなかったが、その中にあって、ひとり「思想と議論の共通の座標軸を!」という丸山真男の声は忘れることはなかったし、「可能性において捉える」という視座において、またルールの構築と改変(=編み変え)により「人は社会や状況を扱い得る」という思考原理において、今私は、竹田青嗣からもある種同じ “響き” を聴くことができる。
社会や状況をどこまでも「操作可能」、「編み変え可能」なものとして捉え、──アジテーションと割腹自殺というやり方ではなく──対話と納得に支えられた、個別かつ互いの “生のデザイン” への道を探っていこうとすること。そういう “希望の原理” にもとづいて、自己の内のロマンティシズムとリアリズムとの相関をより開いていくこと。それが私の「リアル」な生の感覚である、と──45歳という三島の死の年齢に近づいている自分自身に対して──ようやく確認できる場所に来たことを思う。
「カエサルのものはカエサルへ」──ロマンティシズムは自己の内なるもの、リアリズムは〈他者〉の属性──としてだけで今言った相関を捉えつづける場合、私たちは、社会や状況を “扱う” 理由ばかりでなく、私たちの生におけるロマンティシズムの意味とその不可避性まで見失ってしまうのではないだろうか。
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丸山真男に倣って、最後は映画の話で締めくくろう。
アクションを売り物にしている映画を観ていて、よく不思議に思うことがある。悪漢によって拉致された女性を救おうとしてようやく相手を追い詰めたという場面で、人質に拳銃を突きつけた相手から「銃を捨てろ」と言われた主人公が、必ずそこで銃を放棄する。ほとんどの場合、絶体絶命のピンチを主人公がうまく逆転させてめでたしめでたしとなるのだが、私の疑問は、何故彼らはその際、銃を持ったまま一旦その場から立ち去り、また次の機会を狙おうとしないのだろうか、ということだ。
きっと、正義感や侠気において主人公は逃げるわけにはいかないのだろうが──大半の観客もそう望んでいる──、悪漢には人質が必要なのであるからして女性を殺す可能性は少ないのだから、その窮地からはとりあえず逃れて、なんならずっと等距離のまま相手を追いかける──さすれば人質の安全性も低下しない──という手もあるではないか、と私は思う。
「銃を持ったまま逃げろ!」と言うとなんだか浅田彰のようだが、要するにこの場面で私が観たいのは、ロマンティシズムを抱えたままリアルな方へ──ということなのだろう。自分にとってかけがえのない様々なものとの関係の中にこそ生きる「理由」があるとするなら、見てくれや硬直した価値観をもとに──それがいかに「ニヒル」で潔く見えようとも──ギブ・アップして自ら状況(関係や活路)を閉ざしてしまうのでなく、まずは状況を「操作し、編み変える」方向へとさらに自己を開いていくことの方が、より愉しく格好いいのではないだろうか。
(「恐竜たちの団居」6号、ライオンとペリカンの会/1995年11月)
参考→松下圭一と松下竜一
→ライオンとペリカンの会
→ライオンとペリカンの会・130回目の読書会:多和田葉子『エクソフォニー:母語の外へ出る旅』
→花乱社HP