■「まずは無知であると言うしかない」連中がやりたい放題のこの国の悲しさ |
〈政治断簡〉
汝、内心に立ち入るべからず
編集委員・国分高史
一連の「森友学園」の問題ではっきりしたのは、安倍政権は教育勅語を決して全否定はしないということだ。
国有地売却にからむ疑惑発覚当初、夫人から伝え聞いたという安倍晋三首相は、幼稚園の朝礼で教育勅語を暗唱させる籠池泰典前理事長を「教育に対する熱意は素晴らしい」と評価していた。
そして、教育勅語を教材に使うことを否定しない政府答弁書と、朝礼での暗唱を「教育基本法に反しない限りは問題のない行為」という義家弘介・文部科学副大臣の国会答弁が、勅語に対する政権の姿勢を鮮明にした。
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明治憲法下の教育勅語の本質は、「父母に孝に」「兄弟に友に」「夫婦相和し」といった徳目を「汝(なんじ)臣民」に守らせたうえで、いざとなれば「一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」と滅私奉公を求めている点だ。
国民主権に反することは明らかなのに、政権中枢の政治家たちは、この徳目を切り取って「日本が道義国家をめざすという精神は、取り戻すべきだ」(稲田朋美防衛相)という。
だが、その部分だけを取り上げて評価するのは、意味がないばかりか、問題の本質を覆い隠す。
教育勅語の時代は、家制度のもと家族の中にも戸主を筆頭に厳然たる序列があった。現代の私たちが当然だと思っている男女間の平等も、個人の尊重もなかった。この背景を抜きに、内心に働きかける徳目の当否は語れない。
西原博史・早稲田大教授(憲法)は、「教育勅語がいうのは、天皇を頂点とする国家とそれを構成する家族内の秩序維持のため、つまり天皇のために親孝行せよということだ。そこを切り離して『いいところもある』と評価するのは、まずは無知であると言うしかない」と話す。
天皇を元首とする。国民はそれぞれ異なる個性を持つ「個人」としてではなく、単に「人」として尊重される。そして家族は互いに助け合え──。自民党が2012年にまとめた憲法改正草案が描く国の姿は、教育勅語がめざした国家像と重なり合う。
政権中枢が勅語を否定しないどころか、心情的には擁護する理由がよくわかる。
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その政権がいま、テロ対策を理由に「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ新たな法の制定に向けひた走っている。
共謀罪は、犯罪を実行に移した段階から処罰する日本の刑事法の原則を覆す。野党が危惧するように、犯罪を話し合い、合意をしたことが罪に問われるとなれば、戦前の思想弾圧の反省から現憲法で絶対的に保障されている内心の自由が侵されかねない。
「教育勅語にはいいことも書いてある」「テロ対策がなければオリンピックが開けない」。うっかりしていると「そうだね」と答えてしまいそうな言葉とともに、権力は私たちの内心にずかずかと踏み込んでこようとする。
ここははっきりと、「汝、立ち入るべからず」の意思表示をしておかなければ。
議席数だけで言うなら、今現在の自民党は──勿論公明党のお蔭で──何でもできるだろう。おそらく、どこかでの戦争ですら。しかし、現実にそうなったらそうなったで真っ先に逃げ出すか保身に走り、そして仮になおその「戦後」世界があったとして、またぞろ口をつぐんで無責任を貫くのもまた、「まずは無知であると言うしかない」政治屋どもだ。
彼らに一番欠けているのは、今後、違う政党(や全く変質してしまった自分たちの党)が政権を掌握もしくはその主導権を握ることが有り得る、という想像力だ。安倍政権が現在ごり押ししていることども──行政独裁による国粋復古主義──を見れば、そうしたことを思い描いていないのは明白だ。やはり「無知であると言うしかない」ばかりでなく無責任極まりない所業だ。
[4/23最終]