■「久本三多君を偲ぶ会」、それに昼酒呑みによる週替わりの夕暮れ |
PC画面に向かっていて、ふと、正面に降ろしたブラインドの隙間から、西空が黄色から山吹、さらにピンク色に染まっていることに気づく。
そういえば、日がな一日、仕事に没頭していた飾り物職人が、夕刻、窓から桜花のひとひらが舞い込んできたことでようやく春が訪れていることを知る、という一件(くだり)が藤沢周平の短編にあった。
そして、そういう市井の一職人に対してですら、手前らの権力欲・金力欲、そして夜郎自大の傲慢と差別心から、銃を持たせて人殺しをして来いと、それこそ警察力をも使って強要してくるのが、悲しいかな、この国に限らず東アジア諸国に共通な「政治」の実態だ。
そのことが敗戦後70年経っても全くもって変わっていない、ということを教えてくれるのが、安部政権の貴重なところだ。
連中の手口は決まっている。いつも、自分のことはさておいて、「道徳」や「愛国心」を持ち出してくるのだ。古今東西を通じて、彼らにぴったりの言葉がある。
「愛国心とは、ならず者たちの最後の避難所である」(サミュエル・ジョンソン)

●28日
この日は「久本三多君を偲ぶ会」が開かれる日。
前もっていただいた趣意書の前置きにはこうあった。
このたび、久本三多君(以下「三多」と称す)ゆかりの者が集まり下記の通り、「偲ぶ会」を行います。「偲ぶ会」と申しましても「三多」を酒の肴に旧交を温めようとの趣旨です。
主に長崎西高等学校の同期で集いますので、堅苦しくならぬよう式次第も省略し、しゃべり放題、飲み放題で、すべて成り行き任せです。
宴会の前に、同級生たちは油山平成御廟の久本さんの墓へお参りに。
参考記事→桜樹の傍に眠る久本三多さん、そして週替わりの夕暮れ[1/25・27日]

午後1時半、私は西鉄大橋駅前の「くいもの屋 わん」にて合流した。
そこしか空いていなかったので、大きな窓から差し込む強い外光に向かい合う席に坐った私の最初の想いは──こんなに明るい場所でその人となりを語り合うような、久本さんはそんなキャラクターではなかったのでは、というものだった。
だが勿論、男が一人前になるのが大体30歳だとすれば、物心がつく頃からの20年近くの、どの時期に出会ったかで、それぞれの印象は大きく異なることだろう。小・中・高と同級生だった人と大学でだけ一緒だった人とは、当然ながら見たもの・体験した事柄が違うはずだ。
全くの部外者たる私が密かに目論んでいたのは、この(久本さんと同級生の我が)先輩たちが、今何を考え、そしてまたどのように生きてきたのか──折角だからその片鱗でも見せていただこう、というものだ。何しろ、近年、集まった中で私が一番年下という機会は貴重。
とは言うものの、殿(しんがり)にスピーチさせてもらった私は、おそらく先輩8人分を合わせた以上に時間を取ったことだろう。
最早、スピーチや会話の詳細はほとんど頭に残っていないが、私にとって鮮明だったのは──久本君は地方出版人として立派なことを成し遂げたのだな、と同級生(のおそらく大半)がその仕事振りを認識したのは、どうやら久本さんの訃報を伝える新聞記事が発端だったようだ、ということだ。そして勿論、その後の葦書房の騒動についての報道も何がしか影響があったことだろう。
人は互いに生きる鑑(かがみ)だ。没後23年にして「偲ぶ会」を持ち、半世紀以上前のことを語り合おうとするのは、きっと、久本三多という同級生を通して自己及びその生きた年月を捉え返すいい機会なんだろうな、という想いが私に訪れた時も、外はまだ真っ昼間だった。「死者」はそのようになお私たちと共に在る。
掲載した写真2点は、世話役の方から送信していただいたもの。「どんどん使ってくれ」とのことだったので、ならば私が広報部のつもりで。それにしても、七十路(ななそじ)を迎えた皆さんの、笑顔が何とも無邪気なこと。笑い合えることこそが、一番の宝。
[6/6最終]

*
昼酒でほろ酔い加減となった私は、それでも帰宅して短縮ウォーキングへ。
西ノ堤池のヤマボウシ(かな)。

写真集作りなどで色々な人の写真を見てきていつも思うのは、手持ち撮影の場合、どんなプロでも画像がほとんどどちらかに傾いてしまうことだ。普段、レンズの水平をかなり意識する私も、ほぼ同じ傾斜となっている夕焼け写真2枚を見て、改めて自分の癖に思い至った。

でも、どうしたことか多くが「右向け、右ッ!」のこの時代、私はいつも左に傾く(下がる)ようだ。そのことを自分で密かに喜ぶ──まだ腐りきってはいない…と。

●29日 事務所ビルより
上弦の月──尖っているのに、艶やかな存在。
理想を語ることを躊躇わなくていいんだよ。この社会のこと、この地球のことを、今現在生きている者たちだけで決めていいはずがない。
