■時間の渡り方──山本明子さんの投稿 |
やさしい花と共に
4月の晴れた日、母が95歳で旅立った。葬儀はこぢんまりながら花に囲まれた式となった。帰りにそれを花束にして頂いた。半分は父の墓へ、残りは持ち帰り、二つの花瓶に生けた。その日の花は生き生きとしているように見えた。
皆は大往生と言ってくれた。でも、亡くなる前の一息一息が苦しそうだったこと、遠方で母とは頻繁に会えなかったのでそばに居てもっと何か出来たんじゃないかとの少しの後悔など、色々なことが散発的に浮かんでは消える。
1週間もすると頂いた花も傷んでくる。その中でも、まだしゃんとしている花を見つけて茎を短くカットした。それを吸水スポンジにぎっしりと差し込み、花籠をつくった。花瓶とは全く雰囲気が異なり、色とりどりの花畑のようだ。
さらに時がたち、最後はドライフラワーに適した花だけを乾燥し、香りづけにバラのオイルを加えてポプリにした。この頃には母への感謝の気持ち、穏やかでやさしい最後の顔を思い出すことが増えた。
花はいずれ消えゆくぜいたくな品だけど、バラバラに散らかった心を時と共に整理してくれる、やさしいものだなあと思う。
(北九州市 山本明子 主婦 64歳)
「北九州市」と「64歳」も、私には大事な要素だ。ひょっとしてどこかで人生が交錯しているかも知れない。
さり気ない幾つかの表現、とりわけ「この頃には母への感謝の気持ち、穏やかでやさしい最後の顔を思い出すことが増えた」の一文で、生前の母親との関係において、万事問題がなかったわけでないこともそれとなく伝わる。
女性らしい[という言い方も、しない方がいいのだろうけれど…:追記]細やかさ、現実性の背後にある感情と時間感覚。バラバラに散らかった心が整理される──時を渡り、花に託したその感覚が鮮やかだ。
なお、「花だけを乾燥し」は「……乾燥させ」と書いた方がいい。
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