どうも、この正月休みが明けて早々の連休というのはいただけないね。
折角、何とか始まったものが、一旦また途切れる感あり。
それはそれで、このところの空と夕暮れを。
●2日
自宅付近の小公園より。

●3日
軽めのウォーキングへ。竹箒で掃いたような雲が珍しい。
●4日
我が家に一泊滞在の孫たちを連れて福岡市動物園へ。鎖につながれた犬を見るのと同じく、私はあまり動物園観覧が好きではないが、今回、クマを除いて檻の狭さが気にならなかった。半分程を観覧し終えた後、真にしょぼくれてはいるが、私が無視するのことのできないメリーゴーラウンドに遭遇(これは知らなかった)。図柄が傾いている(水平でない)写真は大概修正するのだが、メリーゴーラウンドに関してだけは、むしろ水平でない方が落ち着く。メリーゴーラウンド──このファンタジックでゴージャスな儚さ。動いてはいなかったが、あの乗馬スタイルの上下運動は、先程観覧したサル山にて、所在なげな顔つきの一匹がスプリング遊具に乗っていた情景を思い出させる。
序でに、数少ないが私のメリーゴーラウンド・コレクションを。2013年、イタリア・フィレンツェ。
2015年、ベトナム・ハノイ。
2016年、現物は観ていないが、ハウス・テンボスで買った絵葉書。

●7日
福岡市内で一人暮らしをしている叔母(80歳代)を誘って、糸島市船越の牡蠣小屋へ。
30年近い昔に逝った母に一番気性が似ている叔母。ほんのささやかながらできなかった孝行の一端でも……という気持ちもやはり少々ある。
牡蠣小屋は確か最初が2年前で、今回二度目。
小屋といっても、200人は収容できそうな大テント。そのテントが何軒か立つ入り江周辺では無数の車が右往左往、観光バスも出入りしている。辺りには5000人程は居たのではないか。
テントの一軒、50人位が並んでいる中に混ざり、40分程待って漸く中へ。
写真は、テントの裏より眺める船越湾。
それにしても、みんな、そんなに牡蠣が好きだったか!? ──というのが私の率直な感想。

*
姜 今、アジア主義ということを考えたときに、日本の中で最大の問題点は、日韓が友好的に結び付いた場合のオルタナティブなイメージがほとんど描けなくなっていることです。日韓の問題となるや、とにもかくにもこいつをたたく、あいつは嫌だというリアクションがある。そういうことが政治的な言説やメディアの一部で使われているので、なかなか日韓の感情をほどく糸口が見つからない。(略)日韓合意をどうするんだと言われれば、僕はやっぱり合意は履行した方がいいと思う。ただし、僕の言葉で言うと、魂を入れなければいけない。たとえパフォーマスであっても、魂を入れた外交をしなければ関係は修復できないと思うんです。(略) 日韓の指導者が被害者を慰問するなり、心の琴線に触れる行動をすることが、わだかまりを解く重要なきっかけになるはずです。その意味で、日韓合意は国と国との間で確認した重要な取り決めなのだから決めた後にゴタゴタ言うな、では両国の間の友好・協力への道筋は見えてきませんね。大切なことは、日韓関係がささくれだったまま、お互いにそっぽを向き合っている関係が今後もずっと続いた方がいいのか、それともそうした関係を修復して、より身近な隣国同士の関係を作る方がいいのか、比較考量してみることで、答えはおのずから明らかです。とにかく魂のあるやり方をしてほしい。僕らの言うアジアの連帯は、やっぱりそのうえで成り立つのかなとは思います。
内田樹との対談本『アジア辺境論──これが日本の生きる道』(集英社新書)「第三章 アジアの連帯を妨げる「確執」をどう乗り越えるか」における、姜尚中の発言。 やや綺麗事を言っている感は否めないが、真に明瞭明快、こういうことをきちんと言う論者が……それこそ内田が「でも、そういうことを言う人が今どこにも見当たらないんですよね。だからこうして二人で言っているわけですけれど(笑)」と。 最近、韓国内から講演を依頼されることが多いと言う内田はさらに、
韓国の人と飲んでいると、必ずこれから東アジアはどうなるかという話になります。そして、最終的な結論は「日韓連携がアジア再編の基本になるべきで、この方向しかない」ということになる。韓国の人たちとだと、そういう結論に導かれるのです。嫌韓本とか書いている人たちで、実際に韓国の友人知人がいて、膝つき合わせてじっくりとこれからのアジア情勢について話したことがある、という人が一体何人いるのでしょう。
と。これもやっぱりシンプルな言い方ではあるが、「膝をつき合わせて、魂を入れて……」という人間関係の原点のことを改めて考えさせられる。 もう少し引っ張ってみよう。
姜 中東における国境線はすべてフィクションだという話は、非常に示唆に富んでいると思うのです。逆に言えば、今のナショナリズムの幻想は、国境線で囲えば自己決定を回復できるというとんでもないフィクションに惑わされているわけですよ。そんなナショナリストに任せたからといて、ひどい政治になるのは目に見えているし、そこに穴をあけないとダメではないかというのは、いつも感じていることです。
内田 今の日本の自称「愛国者」たちを僕はナショナリストとして認定しません。自国領土を外国の軍隊が半永久的に占領している状態に対して反対運動を展開していない「愛国者」なんて世界広しといえども日本にしかいないですよ。彼らが気にしているのは日本の国益ではない。党派的イデオロギーの宣布と党勢拡大にしか興味がない連中はナショナリストではなく、ただのエゴイストです。
かつて「私は右翼思想は右翼思想で重要なものと思うが、占領下に占領批判をしなかった右翼思想というものは、信頼しません」(『思想の落し穴』岩波書店、1989年)と書いたのは鶴見俊輔だ(→鶴見俊輔の文章)。今、内田樹までもが、同じことを言わなければならないと考える時代になってきたことを思う。 ここで鶴見が言っている「占領」は、あくまで、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日までの、表向き連合国による「日本占領」のことだ。だが実質は現在でも米国による占領が続いているのだということを、図らずも日本国民に確と分からせてくれた人物が居る。この国にとっての真正の悲劇は、その人物が今なお──それこそ恋々として──政権に居坐っていることだ。 しつこいけれど、もう少し。 姜 さて、話を元に戻しますと、日本も相当荒廃が進んでいると。(略)その荒廃の中でどうするか。韓国も同じです。でも逆に言えば、日本とイーブンになったのではないかとも思うんです。そこでお互いの悪い点を見つけ出して批判し合うよりは、むしろ同病相憐れむではありませんが、僕は連帯の可能性も広がっていくんじゃないかと。
内田 僕は韓国の方が復元力が高いのではないかと思います。韓国ではグローバル化の行き過ぎに対する制度的な反省はもう始まっています。でも、日本はグローバル化の行き過ぎに対する制度的な反省はまだ始まっていない。相変わらず成長戦略だの国際競争力だとか口走っている。(略) 韓国の方が先に階層格差の拡大が進んで、国富が富裕層に排他的に蓄積されて、中間層の没落が始まった。ですから、どうすればもう一度中産階級を再構築できるかということが喫緊の課題になった。その方向に韓国はこれから舵を切ると思うんです。それしか国を救う道がないですから。日本だって、中産階級の再構築以外に進むべき道はないということはわかっているはずなんだけれど、そのための手立てについての国民的議論がさっぱり始まらない。(略) 何といっても大統領を弾劾できるだけの力が国民にあるというのは大きいですよ。日本なんて総理大臣や官房長官がどれほど嘘をついても、答弁をはぐらかしても、内閣支持率は高いままでしたから。韓国の方がずっと健全ですよ。日本の場合は、これだけ政治が腐敗しても、国民の側にそれを自力で修復する気が起きないのは、属国マインドのせいなんですよ。自分たちの統治者のさらに上にアメリカがいて、最後にはアメリカが決めることだから、自国のかたちを自分たちで決めることなんかできないと諦めている。
そうだ、そうだと思いつつ内田の言葉を書き写していたが、段々と本当に悲しくなってくるのは、何故だろう。属国マインド──これは、ひょっとして縄文・弥生の時代からこの花綵(かさい)列島に住み着き暮らしてきた人間たちの根本的な心根なのかも知れない、と。百姓根性、などという話ではない。 率直に言えば、全体として、内田の言葉の切れ味に対し、テレビでもよく見る如く姜の発言はどこか優等生的で迫力に欠けていると感じてきた。だが、対談最後になって、ギアを一段上げたように姜の言葉に熱が籠る。
姜 僕としては、日本に生まれて日本のことを知っているつもりなのに、日本がわからないと感じるのはなぜなのかと思ったとき、あることに気が付いたんです。いろんなところに取材に行ったときに感じていたことですが、日本には有形無形のハード、ソフトの隔離が非常に多いんですね。つまり、一般人に見せたくない社会のある部分を隔離して意図的に隠している。
たとえばこの間、2016年7月に殺傷事件のあった相模原の障害者施設に行ってきたんですね。そこでいろいろインタビューしたんですが、僕が違和感を感じたのは、やっぱりあの隔離のシステム。ハンセン病も隔離だし、ある意味では沖縄も隔離。そういう、自分は普通の人だと思っている人たちが「普通じゃないわね」と思うようなものがなかなか顕在化しない仕組みになっている。これは官僚の統治システムがそうなっていると同時に、社会全体がそういうものを作り上げていっている気がするんですね。部落の問題も在日の人たち問題も基本はできるだけ顕在化しないようにしてある。目に見えない隔離みたいなものも多いし、また「自己隔離」をする人もいるでしょう。(略) 僕がいろいろ見て感じたのは、結局、社会が清潔志向で、「おかしいんじゃないの?」ということを感じさせないような安楽なスペースを作って、見たくないものを隠す、ということ。そういう体質も事件〔相模原の事件〕の根っこにあるような気がしました。ある種の自己欺瞞も含めて、これは日本の社会の非常に根深い問題ではないかと思いますね。一見、共生社会が成り立っているように見えて、実は全然そうではない。(略) そんな取材を通して、日本の社会には、異質なものを匿名性に追い立てていく力がどこかで働いているのではないかという感じを強く受けましたね。だから、在日の人も日本名に変えて最終的にはできる限り紛れていこうとしたし。そういうものが強制的かつ自発的な隔離みたいなものによって成り立っているので、なかなか問題が見えにくい。だから、問題を取り出すまでが結構大変だと思います。逆に言えば、ある程度経済的な余裕があって問題意識がなければ、日本の社会ほど、安楽に過ごせる社会はないですよ。 しかし、韓国を見ていると、日本ほど隠蔽できない社会になっていて、非常に対立が激しい。そこが問題でもあるけど、よさでもある。日本ももう少し異質なものとの対立も含めて、みんながカミングアウトできる社会にしていって欲しいなと思います。
なかなか端折るのが難しく、長い転載になってしまった。ここで姜は、日本の社会と文化の根底にある鵺(ぬえ)的なものを語っていると思う。善かれ悪しかれグローバリズムからは逃れられないとするなら、折角の隣人同士、日韓の民衆こそは互いを範として鑑として学ぶことは多いのではないか。
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