3月21〜23日、沖縄を旅してきた。「観光客」として、辺野古を始めとする、今現在の米軍基地を眺めてみたいというのが一番の動機。これまで仕事で2回、遊びで1回沖縄を訪れているが、そういう目的意識で向かうのは、勿論初めて。「何はともあれ、現場を見てみたい」と思うようになったのは、2015年9月20日、(いつまで居坐るのか!)対米追随ポチ政権による「戦争法案」強行採決の翌日、たまたま上京した際思い立って国会議事堂前に行ってみたことが大きい。→東京には空が無い…か、そして「戦争法案」強行採決翌日の国会議事堂前
●3月21日那覇空港に着いてレンタカーを借りたら、沖縄でまず最初にやること――それは「沖縄そば」を食べるに如かず。如何にもの趣を演出している八重瀬町の沖縄そば屋入口。後で行く中村家住宅でも見ることになるが、門の奥で目隠しの役目を果たしている壁を、中国由来の「ヒンプン」と言うらしい。
そば屋の建物自体も国指定の登録有形文化財だとか。アオさを練り込んだ麵に、アオサを浮かべたスープのそばが美味だった。
私はだいぶ以前に「シーサー(屋根獅子)」の写真集を作ったが、その時に現地で座談会を開催するために赴いたのが、初めての沖縄だった。その時よりはむしろ、あちこち何でもない屋根にシーサーが増えているようだ。言うまでもなく観光地化が大きいのだろう。
石敢當(いしがんとう)。丁字路や三叉路などの突き当たりに設けられた魔除けの石碑。そもそもシーサーもそうだろうし、先程のヒンプンも「悪霊返し」の役目も果たしているとかだったが、はて、それほどこの地には魔物や悪霊が多いのだろうか――。いや、中国伝来の道教に土地の信仰・習俗が混淆(こんこう)したものか。
▶18世紀頃に築造されたという豪農の屋敷・中村家住宅(中頭郡北中城村)を見学。
風雨に晒されたふうな石材と木材の取り合わせも趣があるが、母屋の裏にひっそりとかつ豪勢に咲く花が気になった。後で訊くと、花丁子(ハナチョウジ)だと。
通り道の鉢に植えられていたが、何の花だろう。サンギネア・トリオスターやコルディリネ・レッドスターもそうだけど、私は赤い葉が気になる。→我が家の赤い花たち、そして週替わりの夕暮れ
▶中城(なかぐすく)城跡へ。
今回私は初めて、首里城以外の沖縄の城跡をここで見たが、最初に浮かんだ問いは「これらの城は、一体誰から、何を守るために造られたものか」であった。
そして、後で聞いて漸く、沖縄に「三山時代」というのがあったことを知る。
いや、学校の教科書で何か少し出ていたような気も……。
「weblio辞書」にはこうある。
「琉球時代区分の一つで、1322年ごろから1429年をいう。このころ各地で按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(なんざん)、中部の中山(ちゅうざん)、北部の北山(ほくざん)である。この時代を三山時代と呼び、三つの王統が並立する時代が約100年続いた。それぞれ中国に朝貢し交流を深めたが、その中から中山の尚氏(しょうし)が勢力を増し、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして琉球を統一した」
そして首里城は、15世紀中頃、第一尚氏の時に整備されたということだが、要するにここで言う城は、このように争っていた時代のもので、戦国時代でおなじみ。
それにしても、この狭い島の中でよくそんなに争っていたものだな、と思ってしまったが、これも今回――レンタカー使用は初めてではないが――車で回ってみて、順繰りに訪れたい場所までそれぞれ結構時間がかかることを実体験し、先入観を恥じることになった。少なくとも沖縄本島は、相当に広い。
この赤い花は後で調べると、大紅合歓(オオベニゴウカン)。合歓(ごうかん、ねむ)の文字面は、花たちが一斉に笑い合っているようなイメージか。
▶うるま市の「海中道路」へ。浅瀬を埋め立てる工法で造られたことからその名があるようだ。私は撮るのは道路や橋ではなく、空や海。
この齢になっても渚を見ると、すぐに加山雄三やザ・ワイルドワンズを口ずさみそうで、哀しい。ところで、一体、加山雄三はそれほどの大御所か?
沖縄でも落日と競うことに。水平線に近づくに従い、太陽が大きくなる。
ホテル(糸満市)の駐車場から。
埋立て地域に建っているらしきこのホテル、そのハーバービューの部屋からは糸満漁港(北地区)が見渡せる。まさに春分の日の満月。
●3月22日朝、眺めてみれば、眼の前の漁港も青い水底上にあることが分かった。

今回の目的は、まず第一番に沖縄の米軍基地見学。
即ち今日がメインで、幸いなことに、もう10年程一緒に幕末福岡の歌人大隈言道の勉強会をやっている知人とそのパートナーの方(二人は福岡と那覇に住居あり)に、車まで出して案内をしていただくことに。
▶最初は普天間基地(宜野湾市)。
少し遠望になるが、嘉数(かかず)高台公園の展望所からその全体像が見える、と。
こういう場所こそは、地元の人に案内していただかなければ分からないポイント。
丘の上に、地球を模したらしき展望所。

滑走路は写真右手中央奥。
ウィキペディアによれば、この基地は2700(上のパネルでは2800)メートルの滑走路を持ち、その全面積は宜野湾市総面積の4分の1を占める。
「世界一危険な基地」とも。
一方、この基地を移設しようという辺野古基地の滑走路プランは1800メートル。
「それだけでも、普天間基地を移転するなんていう話が如何にまやかしかが分かるでしょう?」
というのは、すぐ傍にいて他のグループの案内を買って出ている様子の、ご近所らしき中年女性の声。
この展望台には次々に、数人組のグループが基地見学に上ってくる。

展望所ベランダに置かれている石碑。


▶次は、嘉手納基地(中頭郡嘉手納町)。
飛行場そばにある「道の駅かでな」の4階より滑走路がほぼ一望できる。このフロアには、米軍関係の緊急情報が入った時のためにマスコミ常駐席が設えられているようだ。滑走路の手前(左下)にあるのは日本人地主の畑だろうか。

垂直尾翼が2本立った戦闘機(F-15か)が1機、耳と雲をつんざくような轟音を発しながら飛び立った。
私と同じくしばらく基地を眺め遣っていたこの鳥は、ヒヨドリかな。
「道の駅かでな」には嘉手納の歴史や米軍基地の現状を伝える展示室もある。
米軍基地に充てられている土地の地主も当然分かっている。
当然ながら(そうか?)、地代は日本政府が払っている。
これも「思いやり予算」だったか?
次に行く前に、腹ごしらえ。如何にも老舗っぽい店構え、沖縄そばも、ただずっとこれを出し続けてきたというふうなてらわなさが良かった。
▶最後は、辺野古基地(キャンプ・シュワブ、名護市)。
地図は、『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること──沖縄・米軍基地観光ガイド』(書籍情報社、2011年)より。
まずは、キャンプ・シュワブのゲート前を車で通過する。居並ぶ警備員たち。
路側にある反対運動市民たちの小屋。

一旦、ゲートを通過して基地のはずれから海を眺める。
「巡視船」として民間の船や船長・船員がアルバイトをしている、と聞いた.


辺野古の海岸へ。
反対運動のテント村がある小さな港。
反対運動のテント村。
テント内に何人か居たようだけれど、声は掛けなかった。
那覇空港に着いて以降、大きな赤い葉を持つ木が気になっていたが、テント村の傍にもあった。海岸線他、きちんとした街路樹に仕立てられている所も多い。
これも後で調べると、名前は聞いたことはあるが、どうやらモモタマナ。沖縄では親しまれているようで、赤い葉や秋の紅葉好きには見逃せない木だ。
砂浜に出るとすぐに、基地と港を分断する隔離フェンスが眼に入る。
基地の方には、埋立て工事用なのだろう大型クレーンが数本見える。
沖合いには、立入り禁止範囲を区切った大型ブイ(?)が。

ここでぼんやり海を眺めるために、今回私は沖縄に来た。
この辺野古海岸の空気感だけは持って帰ろう、と。
ふと、地元の古老といった風情の男性がぼちぼちと近寄って来た。
「どちらから?」と。
公安関係者でもないようだ。
「福岡からです。……観光客として、現地を観てみたくて」と。
「それは有難いことです。しっかりと観て帰って下さい」とその男性。
最近は結構、若い人のグループがここを訪れているという。
先程からその男性が波打ち際をウロウロしていたので、何を拾っているのかなと思っていたら、別れ際に、
「これをどうぞ。宝貝といって、最近はなかなか見つからなくなりました。
沖縄には昔から、女の子にあげる風習があります」と。
以降しばらく、私たち4人が宝貝探しに熱中したことは言うまでもない。
写真の中央下部のグループが宝貝。
陽がだいぶ翳ってきた。 いつの間にか、海に出ているカヤックが増えているのは、少し前に境界ブイを越えたとかで拘留された仲間がいて、今日解放されたらしく迎えに出た人たちのものだ、と聞いた。
ここを去り難かった。振り返ると、あの男性はまだ波打ち際に居た。宝貝を私たちにあげたことを、後悔していなければいいけれど。「一度自然を傷めつけると、元に戻すのには大変な年月がかかるのです」という言葉が耳に残った。
帰りには、辺野古基地とは大浦湾を挟んだ対岸に回ってみた。 ここがジュゴンの餌場になっているということだが、立ち入り禁止ブイに示されている範囲は、湾口を塞いでしまうのではないかと思えた。帰途に見掛けた古民家建築。
基地ツアー後の少しささくれた眼に一際懐かしく感じられた。
●追記4月8日の新聞に出た全面広告。私が宝貝を探したのは、左上(滑走路)略図の下端を右手に延長した、弓なりに少しだけ残っている砂浜部分だ。広告現物では隔離フェンスも見える。
