今朝の「朝日新聞」で、5月16日に加藤典洋さんが亡くなられたことを知る。
ただ絶句。
2017年12月3-4日、二日間にわたりお会いし行動を共にする機会をいただいた。
加藤さんから「取材」ということで、秋芳洞(山口県)までの案内を依頼されたのだ。
加藤さんと洞窟(鍾乳洞)……? ともかく私は大喜びした。
12月3日は、加藤さんと二人で夕方まで太宰府をブラリとした。
ボソボソと話しながら散歩するなどという行為が、加藤さんとであればどれほど愉しいことか――。それがどこであれ、すぐさま胸躍る「哲学の小径」と化すのだ。
翌日は、私が車を出し、私の友人山下龍一氏も誘って3人で秋芳洞へ。
その時のことを書いた記事にはお名前を出さず写真も掲げなかったが、もう構わないだろう。
●秋芳洞入り口にて、加藤さん(左)と山下さん。まだ晩秋の風情があった。
●秋吉台にて鍾乳洞を潜っている間は、途中土砂降りだったが、秋吉台まで出ると噓のような好天となっていた。
私は翌朝用事があったので、夕刻一人で帰福、加藤さんと山下さんは湯田温泉泊。あの加藤典洋と差し向かいでの対話!──山下さんにとって特別な一夜だったに違いない。翌日、二人は湯田温泉を逍遙、下の写真(山下氏撮影)は中原中也が上野孝子と結婚式を挙げた旅館の中庭にて。ともかく、これほどチャーミングな先輩男子はいない。
友よ、我々はもう、加藤さんが居ない世界を生きている。
嗚呼。
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●加藤さんの最新作『9条入門』(「戦後再発見」双書8、創元社)。
『アメリカの影』(1985年)で世に知られ、『敗戦後論』(1997年)で世に衝撃を与えた加藤さん、その(今のところ)最後の本が『9条入門』。
まだ何も括りたくないが、加藤さん、ともかく見事な戦後派だ。
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さて、今更ながらの自己PRにもなるのだけれど、私が手掛けさせていただいた加藤さんの本を下に。
「加藤典洋の発言」シリーズ全3巻、海鳥社刊。いずれも装幀は、加藤光太郎+川井敦子。キャッチ・コピーは私。
1─『空無化するラディカリズム』1996年7月

2─『戦後を越える思考』1996年11月

3─『理解することへの抵抗』1998年10月

タイトルだけで分かるように、独特の思考と用語法を持つ方だった。
本は勿論、著者のものだ。そして、ほとんどの本には、企画し、関わり、制作に携わった編集者が居る。編集者にもそれぞれの想いがある。
【追記:5/31】『現代詩手帖』2019年2月号に掲載された加藤さんの詩編「僕の一〇〇〇と一つの夜」その1(6月号の「その3」まで続くシリーズ)から一つ掲げたい。
たんぽぽ 加藤典洋
私たちはみな 死んでいる 生きているというのは 間違いなのだ 私たちは みな 死んだ人の 夢なのだから
そう たんぽぽ
死んだ人が死ななかったら 私たちはいなかった 私たちと死んだ人たちのあいだには 超えることのできない壁と 秘密の回廊がある
その秘密の回廊は 誰の中にもある そこで 死んだ人と 生きている人が 出会う
ふたりは それと気づかないまま すれ違う 同じ人なのに 気づかない 信号の色が変わるのに 気を取られている
彼らはすれ違う 彼らは気づかない 信号の色が変わると 秘密の回廊は消える
ときおり たまらないようにして 私の中からもうひとりの私が 私を脱ぎ捨て どんどんと先に走っていく そんなとき 秘密の回廊のドアは ぱたんと鳴る
残された私は 顔のところだけワタゲになって 風に揺られている
ねえ たんぽぽ
私たちはみな 死んでいた 生きていると思っていたのが 間違いだったよ
さあ たんぽぽ 飛びなさい
参考記事→加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』
【補記】
秋芳洞探訪が「取材」だということだったが、一体どういう書き物を考えていらしたのか、まだ少し先の話でもあったようだし、加藤さんに尋ねても明確には答えてもらえなかった。
ただ、この時のことで最初に連絡をもらった際、たまたま読んだ『未踏の大洞窟へ──秋芳洞探検物語』(櫻井進嗣著、海鳥社、1999年)が実に面白くて、それが「あとがき」を読むと何と別府さんが編集したとあるのでびっくりした、とおっしゃっていた。
ともあれ、(今となっては)図らずもその晩年、加藤典洋氏に懐かしがってもらえたことだけでも、私にとっては嬉しいことだ。
何故、洞窟だったのか?──という謎が残されてしまった。

20世紀最後に出版したこの本は、私にとっても忘れ難い大事な仕事だ。
櫻井氏は現在、北九州市で予備校を経営されている。
[11/11最終]