■加藤典洋さんからいただいた、自筆年譜にも載っていない原稿 |

二列目の人
加藤典洋(かとう・のりひろ 文芸評論家)
高田雄造さんは私の記憶の中では、いつも二列目にいる。
一九九〇年代の前半くらい、当時、竹田青嗣さんの博多周辺の人々が作った「ライオンとペリカンの会」から、竹田さんと一緒にお呼びのかかる機会があり、福岡に行って、何か話をしたのが、高田さんとお会いした最初である。同会の事務局の、海鳥社の別府大悟さん、いまはアイルランドにいる藤田需子さん、また森本旗江さんなどが、私の中では、その会の一列目の人で、その向こうに、やや目立たない形で、高田さんがいた。
高田さんとは、古本をめぐる話を少しだけした。何かこちらからお願いしたこともある。自分からは余り話されず、でも数度、福岡に伺ったそのすべての会合で、いつもほぼ最後まで、つきあっていただいた。
一度、当時勤めていた大学の同僚で、朝鮮問題の専門家である秋月望さんに、高田さんの名前を出したことがある。秋月さんは九州大学の卒業生、一九五〇年生まれの高田さんとほぼ同年代である。秋月さんの顔に一瞬、驚きのようなものが走り、いや、大学の学生の頃は、なかなか激しい人だったですよ、というのを聞いて、あの穏やかな、いや穏やかそうに見える高田さんに、一列目にいたころの峻烈な面影が浮かび上がるのを見る思いがした。
私はいまよくサッカーの試合をミーハー気分で見るのだが、日本の代表チームはなかなか、決定力不足で困る。二列目の飛び出しがないので。相手が弱いときには、二列目は出番がなくともよいが、相手が強い場合は、二列目が意表をついて飛び出し、ゴールするようでないと、勝てない。高田さんにはそういう、いつかゴールする心強い二列目の人の感じがあった。
●「心強い二列目」の人だった高田雄造さん

