ウォーキング中の西ノ堤池(城南区)にて。
はて、この白い桜は…ヤマザクラだったか? 毎年撮っている桜なのに。
勿論、年々盛大になってきていることはよく分かる。
ただそれも、いつかは衰退期に入っていくのだろうね。
枝垂れ桜の早咲きの部位。
可憐で妖艶で。
連翹も、未だ満開とは言いがたい。
これは百日紅(サルスベリ)かな。目に一丁字(いっていじ)無しの私にも、東南アジアを旅したからこそ分かるあの赤い花の木。空の落書きのような蕾の競演。
さて、今日も見納め。
真に何でもない夕暮れ──それも多いにあり得るという意味合いにおいて、この詩を引いておきたい。
夕焼け 谷川俊太郎
ときどき昔書いた詩を読み返してみることがあるどんな気持ちで書いたのかなんて教科書みたいなことは考えない詩を書くときは詩を書きたいという気持ちしかないからだたとえばぼくは悲しいと書いてあってもそのときぼくが悲しかったわけじゃないのをぼくは知ってる
自分の詩を批評的に読むのはむずかしい忘れかけていたってそれは他人のものじゃないかと言ってまったく自分のものでもないどう責任をとればいいのか宙ぶらりんの妙な気持ちだ
知らず知らずのうちに自分の詩に感動してることがある詩は人にひそむ抒情を煽るほとんど厚顔無恥と言っていいほどに
「文学にとって最も重要な本来の目的のひとつは道徳的な問題を提起することだ」とソール・ベローは言ってるそうだが詩が無意識に目指す真理は小説とちがって連続した時間よりも瞬間に属しているんじゃないか
だが自分の詩を読み返しながら思うことがあるこんなふうに書いちゃいけないと一日は夕焼けだけで成り立っているんじゃないからその前で立ちつくすだけでは生きていけないのだからそれがどんなに美しかろうも (一九九三年)
流石に、谷川俊太郎もまだ若い。
*
新しく社会に出る人、学校に入る人にとって春はいつも試練のときだ。しかし今年は特別だろう。感染防止のため、入社式を中止する企業が相次いでいる。新人研修も自宅のパソコンで受けさせる会社があるという。大学の入学式も続々と取りやめになった。人と人が交わることによって仕事が生まれ、学問が成り立つ。そんな基盤が危うくなっているのかもしれない。在宅勤務や遠隔授業などでどこまで補い、質を高められるか。この社会そのものが試練のなかにある。 (「朝日新聞」3月30日「天声人語」より)