「年をとると、あきらめるようになる。あきらめには、明らかにするという意味があります。何を明らかににするか。生死(しょうじ)です。生と死は区別できない一体のもの。大きな海は、たくさんの川が注ぎ込んでできています。その大海のひとしずく、一滴が私たちの命ではないでしょうか」 その大海も、大きな宇宙も同じだという。「入れ物である肉体が滅ぶと、ひとしずくの命はどこへ行くのでしょうか。もともとの大海、大宇宙に戻ります。それは生も死もひっくるめた永遠の大生命です。そして生まれ変わり、新たなひとしずくの命となって再生していきます」
わかりやすく言うと、命は終わりのないお芝居です。舞台で演じている人世は、生かされている仮の命。それが尽きるとき、いったん幕が下りる。そのとき舞台は、もともとの大海、大宇宙に戻っている。再び幕が上がると、新たなひとしずくの命になって次の芝居が始まる。命の再生であり、無限の循環。それが輪廻(りんね)です。そう考えると、死が怖くなくなってくる」(岡田 匠)
というのが、「100歳を迎えた奈良・東大寺の狭川宗玄長老」の談話の一部(「朝日新聞」2020年8月12日)。
私も、死が怖い。60歳を過ぎて、無神論者のくせして、「死」への向かい合い方を探してきた気がする。
だから、狭川師の言葉にホッとし、ちょっと惹かれてしまった。
「その大海のひとしずく、一滴が私たちの命ではないでしょうか」
けれど、「大海/大きな海」、「大宇宙/大きな宇宙」、「大生命」──どうしてここで “大きな言葉” を持って来なければいけないのか。どこか折伏(しゃくぶく)の匂いがする。
この100歳は負けん気が強そうだ。その負けん気の強さが、きっとこの人を生かしてきたのだろう。
圧倒的な「大存在」──「存在」するものではないかも知れないけれど──を持って来て、対比的に「ひとしずくの命」として人間/自己をちっぽけなものに捉えること、そうした安心立命の諭し。
そもそも、どのように生きれば死が怖くなくなるのか──そうした問いに絡め取られ脅されるところからは、死への「出発」はできないのではないか。
死は、怖くて当たり前なのでは。
仏の掌にまだ戻れない。