■『ニュー・シネマ・パラダイス』論──九十九日目の兵士 |
*昨年7月、エンニオ・モリコーネが亡くなった。そのことを私が知ったのは、もう年末に近かったのではないか。
改めてエンニオ・モリコーネのために、四半世紀前に書いた『ニュー・シネマ・パラダイス』論をここに置いておきたい。
彼が作った映画音楽の中でも、とりわけあのテーマ音楽があってこその映画だ。
九十九日目の兵士:二つの物語『ニュー・シネマ・パラダイス』
以前、小浜逸郎氏(評論家)を囲んで数人で話していた時、たまたま映画のことに話題が及んだ。それらしいと踏んだ仲間の一人が「小浜さんはいつも(映画館ではなく)ビデオで映画をご覧になるんですか?」と聞くと、醒めた視線で相手を見遣りつつ、小浜氏は「ビデオではいけませんか」と問い返した。会話はそこで途切れた。
その時私は、映画について語ろうとする時、最早我々は、偶然居合わせた他人と共に決まった時間一心に見入るものという前提を、映画に対して基本的には失っていると思った。「映画を観る」という体験の質が変わってしまったのだ。暗がりでの、ただ一回きりの至福の “抱擁” ──そういうことではもう相手も許してくれないし、我々も満足できなくなっている。
「そういう場所から僕らは何事かを考え、ものを言うしかないのではないか」という低い声を小浜氏から聞いたように私は思ったのだが、好きな時に好きな場所で繰り返し観ることができるビデオの時代という “贅沢な” 条件下で、私にも数本、何度観ても飽きない作品がある。中でも、「映画とは編集の産物である」ということを改めて考えさせられる作品は『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)だ。
これは、映画全盛時代、シチリアの港町の映画館「パラダイス」を舞台に、映写技師アルフレードと少年トト(サルヴァトーレ)の絆をトトの恋愛などを織り込みながら描いた作品だが、知られているように、この映画には最初に公開された二時間版と「完全版」とされる三時間版とがある。
監督は元々三時間版を世に問いたかったようだが、二時間を超える映画は興業的に成功しないというプロデューサー側の意向が最終的に通ったらしい。つまり、元々三時間の映画として作られたものから、編集し直された二時間版ができ、そちらが先に公開されたわけだ。
最近私はその両方を観直す機会があったので、おおまかにストーリーを追いつつ、それらを観ながら感じ、考えたことを記してみたい。
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映画好きの少年トトは、母親やアルフレードから叱られながらも、毎日、「パラダイス」の映写室や観客席に潜り込み映画の世界を楽しんでいた。上映される映画はすべて事前に町の神父の目を通り、濡れ場などはもってのほか、キス・シーンでさえ厳格にカットされた。町で唯一の映画館「パラダイス」は一種の社交場になっていて、銀幕上だけでなく、観客同士においても様々な人間模様が展開される。また、映写技師アルフレードの頭の中には、繰り返し繰り返し自分がそのフィルムを回した映画の中のセリフがぎっしりと詰まっていて、この作品の中でも随所でそれが生かされる。そういった点でこの映画は、終始観客の目を通して描かれた作品となっているのが愉しい。
ある日、アルフレードはフィルムから発火した火災で失明し、再建された「ニュー・シネマ・パラダイス」では、彼に代わって、見様見真似でやり方を覚えていたトトがアルフレードの指示を受けながら映写を担当することになる。
やがて青年となったトトは、転校してきた美少女エレナと出逢う。トトは彼女の愛を得るが、彼が兵役についた時点から二人は離れ離れになってしまう。
悲嘆にくれるトトに対しアルフレードは、「町を出ろ。ここには何もない。一度出たら、長い年月帰ってくるな。年月を経て帰郷すれば、友達や懐かしい土地と再会できる」、そして「これは誰のセリフでもない。俺の言葉だ」と言う。さらに、ローマへ向かうトトを見送るプラットホームでの彼の「郷愁(ノスタルジー)に惑わされるな。自分のことを愛せ」という言葉に、自己の人生経験を重ね合わせた人は多いはずだ。
この映画は、そのアルフレードの死の報を受け取った、今は著名な映画監督となっているトトが、幼き日々を回想するところから始まるのだが、やがて帰郷したトトはたまたまそこで、既に時代に取り残された「ニュー・シネマ・パラダイス」の解体に立ち合うことになる──。
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私は、五年程前にビデオで二時間版を、少し後に映画館で三時間版を観た。以後、これまで二時間版を四、五回は観ただろう。一番好きな場面はと聞かれれば、それはやはり、アルフレードが形見として遺した、色々な映画からキス・シーンばかりを集めてつぎはぎしたフィルムをトトが観る、ラストのところだ(寝苦しかった或る夜などは、酔いが回りきるまで、その部分だけ十回以上繰り返し観た)。
さてそれでは、その二時間版と三時間版のどちらに映画として軍配を挙げるか──それがこの間の私にとって悩ましい問題だった。
念入りにカットされた細かい場面を三時間版に辿っていくだけでも興味深いものがあるのだが──ラストのキス・シーン集でさえもったいなくも短縮されている!──、その大半部分を占めるのが、中年になったトトとエレナとが再会する、いわば「もう一つの物語」と言っていい部分なのである。これが三時間版全体の中でも一つの山場となっている。と言うよりむしろ、その物語の存在感は、三時間版を観た後では二時間版には山場がないとさえ思えるほどのものだ。そこでは何かが突如立ち消えになったままの感がある。だからこそ逆に二時間版には、ある種の断念によりすべてを明らかにはしないことで大きな謎を残す映画独得の話法が生かされ、透徹した美しさがあると言える。
結果、私にはこれらが、モチーフに対するスタンスや重心の懸け方が微妙に異なった別々の映画に思えてくるのだ。どちらを採るか──という、奇妙で無理やりとも言える私の悩ましさ(ジレンマ)も一つはそこから発している。
三時間版では、帰郷したトトがエレナにそっくりの少女を偶然見かけたことから、やがて二人は再会の機を迎えることになる。かつての美少女は見事な中年女性になっていて、──これは配役の妙もあるのだが──言ってしまえば清冽な美そのものだった少女の面影を捜すのが難しい。
夜の海岸に止めた車の中、車内灯をつけ相手の顔をまじまじと見るシーンは、切ないことこの上ない。そこで初めて、当時の想いや擦れ違いの経緯が互いにとって明らかになる。傷心のあまり独身を通してきたトトは真実を知って呆然とするが、トトの幼なじみと結婚したエレナは、もし自分と結婚していたらあなたは今のような映画作りはできず名声を得ることもなかった、これでよかったのよ、と言う。……そして、二人は三十年振りの熱い抱擁を交わす(どんな恋愛映画でもそうであるという以上に、この映画では要所に置かれた抱擁場面が極めて “劇的” であり、そのすべてがラスト・シーンをめがけている)。
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初めてこの三時間版を観た時、正直なところ、観なければよかった、この版はなくていいと私は思った。配役の適不適はともかくとして、ずっと想い続けた相手と数十年を隔てて逢うこと──それは麗しくも無残なことだ。トトが一人、十代の時のエレナを撮った八ミリ・フィルムを観るシーンがある。幻想の中に住まう少女はいつまでも変わらない美を味わわせてくれるが、中年になってしまった現実の彼女は、生活の匂いをまといつかせ、妖艶さと引き換えにした老いの兆候を隠しきれない。
幻想が美しければ美しいほど、やはりその究極まで到達したい、「見るべきほどのものは見たい」という想いを誰しもが持つだろうし、何十年経とうが生きている間に再びまみえたい相手を何人かは秘めているはずだ。この映画の三時間版はそういった激しい憧れの気持ち(エロス)に充分に応えてくれている、と言っていい。だが、実際に見てしまうと……逢わなければよかった、これで何かが完全に喪われた、という想いにもまた我々はとらわれてしまう。
美やロマンやエロスの極限性・徹底性に対して、人は、 “時間” を渡る中でどのように持ち堪えれば、それらの “実現” に際会し、本当に自己の掌中のものにすることができるのか──いわばそういった事情を私はこの映画の二つの版の対比から考えてしまう。
もちろん、こういった比較の話では、どちらを先に観たかといったことや、そもそも映画に何を求めるのかといったことが大きな条件になりうるだろう。
少し脱線になるが、以前、竹田青嗣氏と、映画『エイリアン』(以下『1』)と『エイリアン 2』(以下『2』)はどちらが面白いか、という話をしたことがある。竹田氏はそのエンターテイメント性において『2』の方がいいと言い、私は、美術を担当した画家H・ギガーの倒錯的な耽美主義が随所に生かされた『1』の方がいいと言い、意見が分かれた。『1』から私は、人類を遙かに超えた生命力を具現した一人(?)のエイリアンに、そしてその場から逃げるしか術(すべ)を持たない宇宙船乗組員の赤裸(せきら)の様(さま)に、「恐怖」というものの原形を感じさせられたが、『2』におけるエイリアンの描かれ方は、ただの怪獣ども(ちなみに『2』の原題は『エイリアンズ』であり、そのキャッチ・コピーは「今度は戦争だ」であった)と化してしまっていた。もちろんこの場合は同シリーズ中の別々の映画の話であり、語り合っていくうちに、私は制作された順に観ていたが、竹田氏は『2』の方を先に観ていたことが分かり、それなりに納得はしたのだが……(何事も “順序” が大事だ。後先の問題で、人生でさえ一変することがある)。
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話を戻すと、最近また二時間版を観直してみて、もう一つ、この映画を繰り返し体験する中で自分が無意識裡にどの場面(メッセージ)にこだわってきたか、はっきりと自覚した。それは、盲目になったアルフレードが、未だエレナの愛を得ることができず苦しんでいるトトに一つのお伽噺を語るシーンだ。字幕に従えば、おおよそそれはこんなふうだ。
「百日の間、昼も夜も、私のバルコニーの下で待ってくれたら、あなたのものになります」。兵士から愛を打ち明けられた王女は、相手にそう言った。兵士はすぐさまバルコニーの下に椅子を置き、王女を待った。二日、十日、二十日経っても、兵士は動かない。雨の日も、風の日も、雪が降っても、鳥が糞を落とし、蜂が刺しても、兵士は動かなかった。九十日が過ぎ、兵士の全身はひからびて真っ白になった。目から滴り落ちる涙をおさえる力もなかった。眠る気力さえなかった。王女は彼をずっと見守っていた。そして九十九日目の夜、兵士は立ち上がり、椅子を持って行ってしまった──。
「この物語の意味は知らない。分かったら教えてくれ」と、最後にアルフレードは言う。
トトは、エレナの愛を得ようと、アルフレードから聴いた物語にならって、仕事の後、毎晩彼女の窓の下に立ち続ける。そして、彼女の愛を勝ち得る。
兵士は、九十九日間待ち続けた挙句、最後の夜にバルコニーの下から立ち去った。一方、トトの愛は叶うが、結局、彼女は消え去ってしまう。ここにあるのは、一つの物語と現実にそれを生きることとの話だ。人がいかに愛を学び、それをどう生きるか、という話だ。
兵士はどうして立ち去ったのか。九十九日目の夜に立ち去ること──それは、自己のロマンや美意識や絶望の深さの問題だ。
九十九日目──それは、無心さが壊れる日。相手を待ち続けてきたことに対する強烈な自己愛が訪れる時。恋愛の成就から逃走する時刻。喜びよりも悲しさの方に永続性を見てしまう逢魔が時。そして、人と人生を土壇場で謎めかす方向へ歩み去る瞬間……。
以後人は、失ったものを悲しみ続ける自己をロマン化したり、壊れた無心さへの憧憬を抱き続けたり、回りくどい仕方で悲しさを再生産しようとしたり、はたまた郷愁にとらわれるのを回避しようとして「どこか遠く」へ立ち去ったりする。
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ところが、後日ついでに三時間版のビデオを借りて観直した時、それには、兵役を終えたトトが故郷に戻り、アルフレードに「兵士が待たなかった訳がわかった」と、この物語の彼なりの意味を語るシーンが挿入されていることに改めて気づいた。
トトはこう言っている。
……あと一晩で王女は彼のものだ。でも、もし王女が約束を守らなかったら、絶望的だ。彼は死ぬしかない。九十九日でやめれば、王女は自分のことを待っていてくれた、と信じ続けられるだろう。それで兵士は去っていった。
このトトの解釈は、前述の私のそれに近い。だが、今回この場面を注視している時、私にはどこか引っ掛かるものがあった。何か釈然としないものが残った。それは、トトの解釈には、最初のアルフレードの語りには挿入されていた「王女は彼をずっと見守っていた」という情景について全く触れられていないことから来るものだ。何故、そうなのだろうか。
この時の私の違和感を溯って言うなら、トトの解釈を知ったことで、逆に元々の物語には王女の視線がきちんと織り込まれていたことに思い至る、という流れだった。そして、その後の再会シーンでは王女すなわちエレナが登場し、当時の胸の内を明かすことになる。きっと、それでは映画として饒舌すぎるしモチーフが錯綜してしまう、と再編集を行った人間は考えたのだろう。
兵役期間中、トトはエレナのことを想い続け、捜し続けた。そしてその度ごとに相手の「背信」の可能性に襲われ、苛(さいな)まれた。出郷後──遂にはそれは、失恋と〈信〉ということの不可能性とをめぐる、一つのルサンチマンと化すだろう。
「ルサンチマンこそは弱者に授けられた武器」とニーチェが言うように、愛を失った者たちは一つの物語(ルサンチマン)を作り上げる。新しい目標(相手)が現れて立ち去る者にはそれは要らぬものだが、立ち去られた者には自己回復のための物語が必要だ。そして彼らは、幾度も幾度もそこから立ち上がろうとしつつ、なお自分が 〈美〉から遙か遠ざけられていることを思い知らされる。中島みゆきも歌う。「恋の終わりは いつもいつも/立ち去る者だけが 美しい/残されて 戸惑う者たちは/追いかけて 焦がれて 泣き狂う」(「わかれうた」)
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興業側の要請から三時間版を編み直した人間は、トトとエレナとの再会シーンを抹殺すると共に、「九十九日目に立ち去った兵士」についてトトが自己の解釈を語るシーンまで削除した。エレナ(=王女)を登場させ、彼女の口から「私も待っていたのよ」と告げさせるシーンを取り去るのなら、トト(=兵士)が自己の想いを語るシーンの方も残すわけにはいかない、と。つまり、この二つは三時間版において、一つの物語(恋愛)の持つ両面性が顕になる向かい合わせの場面だったのだ。彼(ら)はその二つ共を切り捨てることで、何を闡明(せんめい)させようとしたのか──。
常識的に考えても、その作業に監督が関わらなかったはずはないが、監督もしくは再編集を担当した人間がその主旨を必ずしも素直に受け入れたのでないことは、二時間版のラスト・シーンの後、製作関係者の名前がテロップで紹介される背景に作中の印象的なフラッシュが次々に流されるのだが、その一番最後に、二時間版では存在しなかったシーンにおける中年トトの驚愕の表情が大映しにされることで推測できる。それは、彼がカフェの窓越しにエレナと見まがうほどの少女(エレナの娘)を発見して佇む場面である。
少女の美しい面影を壊さず、ロマンを宙吊りにしたたまま結末まで運んでいく潔さにおいては、二時間版の方が鮮明かつ美的であるだろう。それは、父子のごとき関係を軸とした、男たちのロマンティシズムを描いた作品と読める(私には、アルフレードこそが「九十九日待って立ち去った兵士」の後の姿に見える)。
だが、現実の生では、人はその後の展開をも見せられてしまう。少なくとも、自己の頽落(たいらく)と老いを。そこで我々は、自分がどこまで美を求め続け、エロスを追い続けることができるかを験される。その果てで、美やエロスの極限を味わうことになるのか、あるいはもっと深い絶望にとらわれることになるのか、さらには絶望でさえも癒されてしまう最後の物語にうまく回収されることになるのかは、結局のところ自分がそれらを生きてみないと分からない。その道程の “いま・ここ” において、我々は、「これから先は見ない方がいい」と確信するから九十九日で立ち去ることを美しいとするのか、たとえ背信や絶望に向かい合うことになろうともどこまでも追い求めて百日も百一日も待とうとするのか──。
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さて、この二つの映画『ニュー・シネマ・パラダイス』の体験性の違いを、私の言葉にすればこうだ。ここで美とエロスとをあえて切り離してみるなら、一つは 〈美〉を指し示し、もう一つは 〈エロス〉に向かっている、と。だが、前者における 〈美〉とは、いわばセンチメンタリズムを純粋培養して昇華させたような 〈美〉であり、そういった意味においての “断念” の美しさであった。そこでは、「百日目の王女」を登場させるわけにはいかなかった。片や後者の、三十年を閲(けみ)した物語において我々が見ることになるのは、時間と生活に晒されつつも未だ生臭い「中年の王女」であり、実は互いに「待ち続けていた」という今さら知っても取り返しのつかない真実である。ここにおいてなお 〈エロス〉が滅びない条件とは、一体何だろうか──。
三時間版を観てしまった私は、最早二時間版の 〈美〉の世界に立ち戻ることはできないが、この二つの映画(物語)がもたらすメッセージの感触を私なりに言えば、〈美〉とは、これ以上求めると「美しくなくなる」という、どこかの地点で踏み留まろうとする内在的な基準において初めて測られるものであり、 〈エロス〉とは、たとえその果てにどんな世界を見ることになろうとも、どこまでも対象をめがけていく超越的な力である、ということだ。
それでは、三時間版のその先に、〈美〉と 〈エロス〉との本来的な“抱擁”を実見する秋(とき)があり得るのかどうか──いずれにしろそこでは、最早我々は「観客」の立場にない。
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夜の海岸で再会した翌日、ローマへ発つ前にトトはエレナに電話する。「将来僕たちも……」と口ごもるトト。エレナは、「私たちにあるのは過去だけよ。昨夜のこともただの夢よ。すてきな夢よ。若い時には見なかった夢。──あれ以上のフィナーレはないわ」と言ってのける。それに対し映画監督たるトトは、「僕はそう思わない。決して……」と答える。自己への肯定と否定とが、互いの中で交錯しせめぎ合う一瞬。「フィナーレ」をどこに置くか、それを決めるのは誰なのか。
自分のスタジオに戻ったトトは、アルフレードが編集したフィルムを観ることになる。これは観客泣かせの常套的な手法とも言える場面だが、切れぎれのキス・シーンをいくつも見せられているうち、私の胸には、男と女が初めて唇を接し合う際のときめきが、自己の「内在-超越」の原感覚として幾度も甦ってくる。
(「恐竜たちの団居」7号/1996年6月)
*掲載写真は、DVD(「ニュー・シネマ・パラダイス ツインパック」)のパッケージを除いて、『CINE SWIITCH』Vol.13(1989年)より。
【追記】
近年私は、ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳、みすず書房、1980年)の「待機」の項の中に、以下の文章があることを知った。
昔、中国のある高官が歌姫に恋をした。「わたしの部屋の窓の下で、床几にすわって百夜お待ちくだされば、あなたのものになりましょう」、女はそう言った。九十九日目の夜、くだんの高官は立ち上り、床几をこわきに立ち去ってしまった。
因みにバルトの原著は1977年出版、『ニュー・シネマ・パラダイス』は1988年公開。
参考→嫉妬する私は四度苦しむ──ロラン・バルト[2013.1.28]