■「戦争の福岡」を特集とした『福岡地方史研究』第59号を発売 |
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2021年 09月 20日
『福岡地方史研究』第59号が発売となった。
今号の特集はやや異色で、「戦争の福岡」と題して、論文・研究ノートを8本、関連コラムを4本収録した。 特集を含めた全体目次を掲げておこう。 【特集:戦争の福岡】 戦争の福岡:火野葦平を通して……坂口 博 福岡県戦争遺跡調査について:文献調査の観点から……渡部邦昭 軍都・小倉市の建物疎開……梶原康久 西伯利出兵史話師岡司加幸:世界史としての大正七、八年戦役と福岡……師岡司加幸 大東亜戦争前の小作争議:農民組合の関連性を軸に……濱田周作 少国民の労働戦士聞き書き:福岡市内国民学校高等科生徒の勤労動員……首藤卓茂 福岡陸軍墓地について……浦辺 登 陸軍特別大演習と福岡石瀧豊美:高原謙次郎「大演習拝観記」の紹介……石瀧豊美 【特集関連コラム】 相島の忠霊塔……今村公亮 林えいだいと戦争:父・寅司を中心に……森川登美江 ある学徒兵の死……山下龍一 「巣鴨版画集」とBC級戦犯の獄中日記……青山英子 【論文/研究ノート/随感 他】 幕末佐賀藩におけるいわゆるアームストロング砲の製造をめぐって:田中久重と石黒直寛関係史料および文献からのアプローチ(三)……河本信雄 慶長期福岡藩の支城:一次史料と可視領域からの再検討……西田 博 古文書蒐集折々譚 その5:宮崎安貞を尋ねて……宮 徹男 テレビ・ラジオのドキュメンタリー作品と地方史(上)……松尾允之 【短信往来】 今村公亮/河本信雄/向野政弘/西田 博/花田俊雄/馬場﨑由美/森川登美江 * いささかショッキングな特集は編集委員長の発案で、その意図の一端は特集前文で触れられている。 特集にあたって──太平洋戦争史観を検証する 令和三年六月二十三日、七十六回目の慰霊の日を迎えた摩文仁の丘は雨だった。コロナ禍のため、式典は関係者三十数名に限られていた。正午を合図に黙祷をささげた後、一人の少女が参列者の前に立ち、自作の詩を読み上げた。「私は知っている 礎を撫でる皴の手が 何度も拭ってきた涙」。風は雨をたたき少女の頰を濡らす。「いま摩文仁の丘に立ち あの真太陽(まていだ)まで届けと祈る みるく世(ゆ)ぬなうらば世や直れ」 長い詩だった。無数の声なき声は糸満の空を走り、風雨にかき消されることもなかった。戦没者たちもまた「みるく世ぬなうらば世や直れ(平和な世がやってきて皆が幸せになるように)」と謳っていたのだ。 七十六年前のこの日、沖縄防衛の任を帯びた第三十二軍の幕僚たちは、軍司令官とともにガマ(自然洞窟)の中で自決した。日本軍の組織的抵抗は終わったが、沖縄はまだ「みるく世」(平和な世)ではなかった。米軍の本土進攻を遅らせるために、生き残りの将兵たちには、遊撃戦による徹底抗戦が命じられていた。このような戦略持久の作戦を推進したのは、軍参謀長の長勇中将で、糟屋郡粕屋町の農家に生まれた人である。 沖縄失陥後、日本は継戦能力をなくしたまま、敗戦への道を辿ってゆく。本土決戦による一億総特攻総玉砕以外の戦略上の選択肢はもはやなかった。天皇の聖断のない限り、どこまでも沖縄戦を本土で戦い続けただろう。しかし無条件降伏を受け入れ、アメリカを中心とする連合国軍による占領に抵抗することなく、日本は「みるく世」のために再出発した。平和憲法を携えて国際社会に再登場したが、はたしてそうだろうかと火野葦平資料館館長の坂口博(敬称略、以下同断)は問いかける。占領期にアメリカによる太平洋戦争史観を強要され、日本の戦争は歪められたのではないかと「戦争の福岡」(講演録)で指摘し、大東亜戦争史観に立たなければ、本当の日本の戦争は見えてこないのではないかと問題提起した。 北九州地区への最初のアメリカ陸軍航空軍による爆撃は、昭和十九年六月に中国大陸(四川省成都)から飛来した七十五機のB29によって行われている。空襲による軍需産業などの直接的被害は、爆撃対象地区の建物疎開を加速させ、庶民の間接的被害を拡大していった。その状況を梶原康久は「軍都小倉市の建物疎開」で活写している。 昭和二十年三月以降、空襲は焼夷弾による無差別爆撃となり日本の諸都市を焼き払っていったが、軍需産業は男女の学徒を動員することによってどうにか維持されていた。首藤卓茂は体験者の聞き取りを通して、その実態を「国民学校高等科勤労学徒動員」にまとめ上げている。戦争の貴重な記録であり記憶である。 支那事変から大東亜戦争へ拡大する中で、大本営は援蒋ルートを遮断するためビルマ作戦を開始する。久留米編成の二つの師団(第十八師団、第五十六師団)は、ビルマ北部に投入され、一部の部隊は中国(雲南省)へ侵攻した。日本の戦争は暴戻支那を膺懲(ようちょう)するという戦略目的のもとに、大兵力を中国各地に展開していたが、連合国によるインドからの継続的な対中支援は大きな障壁となっていた。この障壁を取り除くことの出来ないまま、日本はずるずると敗退し、多くの戦死者を作り出していった。大陸や南方や太平洋島嶼から次々と帰還する英霊たちは、白木の箱に入れられ陸軍墓地に葬られた。現在、福岡市中央区谷に遺る陸軍墓地を浦辺登は取材し、「福岡陸軍墓地について」として報告している。 明治維新直後、御親兵として出発した陸軍は、明治六年の徴兵令によって近代国家の軍隊の基礎を築いた。石瀧豊美は明治十八年四月、行事村新田原(現行橋市)で行われた大演習を見学した高原謙二郎の大演習拝観記(古文書)を読み解き、初期の陸軍大演習の実態とその後陸軍特別大演習として慣例化される過程を「陸軍特別大演習と福岡」で論じた。 石瀧論文に見られるように、大正七年の特別大演習は関東平野で行われ、七個師団を動員したが、この年行われたシベリア出兵について、師岡司加幸は「西伯利出兵史話」として筑豊出身の一兵士の戦旅を追っている。それは後の支那事変、大東亜戦争での皇軍の原型ともいえる戦い方だった。 第一次世界大戦後の日本国内でも、ロシア革命の影響により、労働運動や農民運動が多発した。濱田周作は「大東亜戦争前の小作争議」の中で、戦前の小作争議の多かった福岡県に焦点を当て、県内の農民運動を分析している。 敗戦直後、日本に進駐したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、戦争はどうして起きたのか日本人を啓蒙するため、新聞を通じて太平洋に視点を置く戦争史観を連載した。現在の私たちは義務教育に受け入れられたこの史観の中で戦争を考えているが、沖縄の現実を見る時、はたしてアメリカの民主主義的史観は正しいのかどうか。渡部邦昭の「福岡県戦争遺跡調査について」の意味するものは、文献調査の観点から論じられてはいるものの、戦争遺跡の発掘が増えれば増えるほど戦没者たちは、そのことを語りかけてくるのではないだろうか。沖縄の少女が謳ったように「みるく世ぬなうらば世や直れ」の想いと共に。 (師)
by karansha
| 2021-09-20 18:01
| 編集長日記
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