■福元満治氏による菊畑茂久馬著『新版 フジタよ眠れ』評 |
福元満治
サブタイトルに「絵描きと戦争」とある。藤田嗣治らが描いた「アッツ島玉砕」、「血戦ガダルカナル」などの戦争画は、民主国家となった戦後日本にとってタブーになっていた。軍国主義の走狗(そうく)や恥部とみなされ、米国から返還された百数十点も長らく東京国立近代美術館の奥深く封印されていたのである。
日本近代絵画史の中にあって、その意味を問われることもなく幽閉された絵画群。その表現論的意味を初めて真正面から問い直そうとしたのが、元九州派の画家・菊畑茂久馬の本稿である。
日中戦争や太平洋戦争の中で、小説家や詩人や音楽家たち多くの表現者が、軍部に協力してさまざまなプロパガンダ(宣伝活動)に従事した。敗戦後、彼らの多くは進駐軍のもとで「民主化された国家」により断罪され公職追放となった。その思想的問題については、さまざまに論じられ、特に文学の世界では戦後思潮の大きなテーマであった。
もちろん絵画の世界でも、戦争画への論難を主調とする論争が起こったのである。しかしその多くは、戦中の軍国主義イデオロギーの反転した陰画としての民主主義イデオロギーによる断罪であった。著者は、その論争も丁寧に取り上げながら、絵画史的な位置づけと〈自立する表現〉について根源的に考察しようと苦闘したのである。
誤読を恐れずに言うと、優れた芸術表現は時代のイデオロギーを超える。それが戦争であろうと平和であろうと革命であろうと、その水位より深い自立性を持つ。
本書が書かれたのは、1970年代である。その「新版」を読み直してもその論旨はまったく色あせないばかりか、表現と国家、あるいは表現と(あらゆるものを商品化する)資本制システムという問題を考えた時、その批評的位置は揺るがない。
著者は、「戦争画」を戦後イデオロギーで批判した芸術家たちが、万博に象徴される国家的イベントになだれ込んだことを記している。50年後の現在、国家を超える「グローバルなデジタル資本主義」に〈表現〉がどう対処し得るのか、という難題をも突きつけているように思える。
「日本経済新聞」(西部版)(2021年12月23日)
●『フジタよ眠れ』(花乱社、2021年)
