■空前絶後か──『新版 フジタよ眠れ』読書会、そして週替わりの夕暮れ[4/24] |
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菊畑茂久馬の『フジタよ眠れ』と太宰府天満宮宝物殿での作品展をめぐって
長崎に生まれ、福岡を拠点に活動した画家菊畑茂久馬は、1970年代を中心に、藤田嗣治らが描いた戦争画、とりわけ「作戦記録画」とは何かという問題に正面から向き合っている。そのなかで綴られた文章を集めた『フジタよ眠れ』が昨冬、新たな編集の下で再刊された。この『【新版】フジタよ眠れ──絵描きと戦争』(花乱社、2021年)に「補遺」として収録された「戦争画はどこに」のなかで、菊畑は、自身の問題意識をこう言い表わしている。
「戦乱の中でかけがえのない内面の犠牲が折り重なって綴られた戦争画の意味を、編年史的な概説や特権的な芸術的裁断を克服して、あくまでも普遍的な人間の共通の思想の場でとらえることは、本来美術による表現が人間の内にある魂の伝統に触れているかぎり、これは創造の基本的な義務であろう」。このような並々ならぬ決意とともに、戦争画の思想と対峙しようとするのは、日本の敗戦からおよそ三十年を経た当時、それが未だ乗り越えられていないからである。
菊畑は、「作戦記録画」に極まった思想の一面を、「リアリズム」という語で代表させながら、「絵描きの中の戦争」という論考のなかで、「美術の中のリアリズムの亡霊はまだ少しも克服されていない」と述べている。明治期に国家によって組織的に、美術教育の次元から導入された、光の下、可視的な世界を、遠近法を駆使して平面に描き出し、「現実」のイリュージョンをもたらす絵画。それは「国民」のためのスペクタクルとしての「作戦記録」とも親和性を有していた。
その一方で、何よりも菊畑が重視するのは、画家自身が、これまで研鑽を積んできた「美術」の制約なき実現の可能性を、軍から与えられた「作戦記録」の機会に求めたことである。そのような姿勢を代表する画家が、菊畑にとっては藤田嗣治にほかならない。「画家としてこの光栄ある時代にめぐりあった私は、しみじみと有り難いと思う」と語った藤田が、寝食を忘れて戦争を描き続けたことはよく知られている。その頂点に位置する「記録画」として、菊畑は《アッツ島玉砕》を挙げる。
「凍てついた氷の山を背景にした《アッツ島玉砕》は、地獄の怨霊までさむからしめる画面である。襤褸のような生者と死者が波のうねりのようにたゆとうている」。菊畑によれば、そのようなイリュージョンにおいて、藤田の画業は頂点に達した。「フジタよ眠れ」においては、「その後、藤田の絵は全く死んだようであった」とすら語られている。それどころか、《アッツ島玉砕》とは、「西洋画」の導入とともに始まった日本近代絵画の歴史の到達点を示す一作でもあるのだ。
では、近代絵画の思想を、戦争画に極まったこの思想をどのように乗り越えるのか。この問いを抱くなかで、菊畑は山本作兵衛に出会っている。「まさに文字通り明治・大正・昭和三代の日本の近代の暗底部を、歴史の構造の最も過敏な場所で受けとめ、『より内部へ、より外部へ』という宿命の問いに歯を立てていた一人の画家がいることを発見したのである」。菊畑は、戦争画の問題に取り組む傍ら、山本作兵衛の炭坑画を執拗に模写し、それを世に伝えるのにも尽力している。
山本の画業を論じた「川筋画狂人」のなかで菊畑は、近代絵画が「虚構」を現実のように作ることに終止して、「創造自体を虚構にしまいつつある」と批判したうえで、山本の炭坑画に「虚構」としての「タブロー」を作ることを越えた絵画を見届けようとする。ただし、その記録性を評価するわけではない。むしろ山本が、絵画そのものが不可能な炭坑の闇のなかから、絵画的な「写実」を越えた現実性を、「全知覚を動員」して摑み出していることに菊畑は注目している。
菊畑は、絵画そのものの存亡を賭けて闇の奥から像を取り出した山本の「強靭な視覚精神」に学びながらも、自身の美術は1980年代以降、独特の抽象性を帯びながらも、批評的な主題の設定にもとづく、さらには平面性といった「絵画」の枠組みを内側から乗り越えていく方向へ展開していく。それを代表するのが、80年代半ばからの「天動説」連作ということになろうが、その一作《天動説 No. 116》(1985年)を、太宰府天満宮の宝物殿での菊畑の作品展で見ることができた。
深緑を基調とし、リズム感も微かに感じさせる文様を持った地の上で、灰色の絵の具の塊が、まさに飛び交っている。その運動きは、地の色調に動きがあるために、いっそう多元的に見える。その様子は、照葉樹の森の上を、あるいは波打つ海の上を、死者の魂が乱舞する光景をも想像させるが、もしこうしたことが表現に含まれているすれば、《天動説》はすぐれてアナクロニックな作品ということになろう。ここにあるのは、時系列の錯乱であり、物理的な法則への叛乱である。
とりわけ重力への叛逆は、《海104》(1990年/1993年加筆)にも見て取られる。その画面に言わば彫り起こされているのは、水圧に抗うかのように渦巻きながら上昇する運動である。海の静寂の奥底にそのような運動を感じ取りながら、菊畑はそれによってまき上がるものにも目を凝らそうとしている。例えば、《舟歌14》(1993年)には、深い闇のなかから海の記憶が立ち上っている。漁網の変容にも見えるその造形には、漁師だった父親への哀悼が込められているのかもしれない。
今回の作品展の焦点となる作品は、二双一曲のように描かれた《天河》(1997年/2001年加筆)だろう。この大規模な作品は、漆黒の闇のなかに天の河が限りなく広がっていくさまを描いているのだろうが、深海底の深い闇のなかから水が湧き出し、それとともにまき上がった微生物の燐光が微かに閃く様子も感じないではいられない。いずれにしても、《舟歌》に通じる記憶の気配を感じさせる画面である。これを含め、今回展示されていた作品のほぼすべてから海の存在が感じられる。
《海道6》(1990年/1997年改作)には、無数の生命が押し寄せるなかに開かれる海の道が描かれているように思われる。イワシか、もしかするとトビウオの大群が、大洋に道を開いているのかもしれない。あるいは《月光》と題された二つの作品では、光が海に降り注ぐ運動が捉えられているようにも見える。月光が波に当たって、乱反射しているかのようだ。《春風103》(2006年)では、花や枝葉が風に舞っているが、その背景にも海を感じないではいられない。
これらの作品に暗示される海は、菊畑が幼少期に親戚に預けられて過ごした五島の海なのかもしれない。それに対する郷愁が、彼に海を描かせたのかもしれないが、そのとき彼は、この海の底に日本の侵略と植民地主義の記憶が沈澱していることを忘れてはいないはずである。おそらくこのことへ向けられた思考が凝縮された早い時期の作品の一つが、新たに福岡市美術館に収蔵された《奴隷系図(三本の丸太による)》(1961年/2016年)ではないだろうか。
黒く塗りこめられた丸太が暗示する系図は、いずれも封印されている。上下の二本は、金色の金具のようなもので巻かれ、真ん中の一本には杭が打たれている。これらは、船の帆を思わせる形に置かれた白い布によって、オブジェと化している。このことは、半島と大陸と列島における奴隷──あるいは竹内好の言う「ドレイ」──の系譜の忘却を問いただしているのだろうか。三本の系図の上には壊れた仮面が置かれ、その下では、鰻が愛嬌のある顔をのぞかせている。
どこか沈没船のようでもあるこのインタレーションは、奴隷化の歴史の忘却を問うだけでなく、奴隷であることからの訣別の可能性も探っているのかもしれない。これを制作した時期、菊畑は九州派に加わりながら、独立した美術の道筋を探っていただろうし、そのことは日本の近代史と対峙することと不可分だったはずである。こうした美術の歴史的な可能性への問いが、戦争画との対決をつうじて、また山本作兵衛の炭坑画の研究によって掘り下げられていくことになる。
この美術そのものへ向けられた問い、画家としての自身の存立を賭けた問いに、今回太宰府で見た後期の作品はどのように応答しているのだろうか。この点に見通しを与えるためには、菊畑の著述を解読するとともに、一時期の空白を挟んで展開する彼の美術の展開の前期と後期を、粘り強く照らし合わせることが必要になるだろう。その作業は、日本列島から、その近代史を潜り抜けた先にどのような美術がありうるのかという問いに向き合う仕事でもあるはずである。
これを書いている今、酒が入っているせいかどうかきちんと言えないが、要するに、美術であれ何であれ、その作品や作家について、こうした新しい評者が現れることが大事だと思うから。
正直、それほど難しく言わないといけないのかな、といった思いも持つが、ともあれその作家(表現者)とリアルタイムで接した者だけの世界に閉じ込めておくべきものではないだろう、と。
そのものをもっと広い世界へと飛び立たせたいものだ。
柿木氏のレビューはそう思わせてくれた。
●4月24日
ウォーキングで西ノ堤池へ。
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コオロギたちが活発だ。
池の西側に進むと、「沼」の匂いがした。
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