■『お伽猫紙(おとぎびょうし)──星先こずえ切り絵作品集』より |
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2013年 04月 08日
新刊『お伽猫紙──星先こずえ切り絵作品集』(A4判変型・横綴じ/72ページ/定価1995円)より、掲載作品を何点か紹介する。関連記事は「電子書籍は『完璧な画集』の夢を見るか?」。
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by karansha
| 2013-04-08 15:55
| 編集長日記
2013年 03月 26日
既に期間は終わったが、植木好正氏(「“田舎のシュール”てんこ盛りの画集」)の絵画展が開かれ、フェイスブックに載せた新作が好評だったので転載しておこう。
なお、1998年より植木氏が始めた「アート・1万人の似顔絵」は、この展覧会を始める時点で7800人を超えている。 * 【植木好正氏個展】 田川市在住の画家・植木氏が、17日から川崎町商店街の一郭で「人間が好き」展(「個・mati展 in豊前川崎」の一環)を開催中。 写真は、旧家具店を利用した会場での植木氏夫妻。100号ばかりがドーンと並んでいるのは壮観だ。商店街の風情もなかなか良かった。 「いつか、ドイツのかつての炭鉱地域ルール地方で展覧会をしたい。何かつてがないだろうか」と植木さん。24日(日)まで。 ![]() [新作の一つ「働く女たち」] ![]() #
by karansha
| 2013-03-26 17:45
| 編集長日記
2013年 03月 16日
北九州市が市制50周年を迎えたとのこと。
50年前、私は小倉・清水小学校の5年生。市制施行にあたり、当時の5市の中から選抜された小学生が協同で記念の大壁画を制作するということで、特別絵が上手かったわけでない私もどうしたことか選ばれ、壁画の一角に門司港のパゴダ付近を描いた。 完成後、どこで、どんなふうに展示されたのか全く記憶にないが、だいぶ前、その壁画が八幡のどこかの公民館に保管されていると聞いたことがある。一度観に行きたいと思いつつ果たせていない。 その頃はまだ、紫川が沼のような臭いを漂わせ(中学生時、私たちは貸しボートに乗って何度もその水を被った)、勝山橋に “喜捨” を求める傷痍軍人が坐り込み、橋のたもとにはバラックが建ち並んでいたのではなかったか。 そうした光景は眼裏(まなうら)のどこかに残っていて、小倉を訪れて綺麗に整備された紫河畔を歩く時、ふと鮮烈に甦ってくることがある。 何故かそれはモノクーロム映像なのだが、のっぺりとした現在の光景が──何か間違っている! と──嘘っぽく感じられるほどリアルだ。
掲示写真は友人からもらったもの。八幡のどこかかと思われるが、これも分かる方がいれば教えてほしい。 #
by karansha
| 2013-03-16 10:20
| 編集長日記
2013年 02月 12日
一泊行で「ランタン・フェスティバル」初日の長崎へ。単なる遊びで訪れたのは小学生の時(原爆関連展示を観た後、数夜うなされたことを覚えている)以来か。 宿は、細くて急坂の路地が入り組んだ南山手にある、さる会社の保養所(とてもリーズナブルだったが、なんと門限があり、それが9時!)。周囲は風致地区とかで、文化財となっている建物に囲まれている。グラバー園に5、6分で行けた。 何とはない予感はあったが、宿周辺の様子を確認した時点から脅迫のように募ってきたのは、かつて久本三多氏(葦書房初代社長、1946〜94年)が「幼い頃、グラバー邸の近くにあるオルト邸でスラムのごとくに住んでいた」と語っていた旧オルト邸(現在はグラバー園内)を実見しなければならない、という想いだった。彼は、今では国指定重要文化財となっている洋館に住んでいたのだ。 グラバー園に入ったのは5時近く。西洋とこの国の二重映しにレトロチックで浮世離れした感のある建物群、そしてあれこれの室内調度や展示を駆け足で眺め遣り、園の最も奥まった付近にあるオルト邸に到着したのが日暮れ間近。幕末・明治期の代表的な洋館とされるだけあり堂々としていて、強いて住居として見た場合、園内ではこれが一番モダンで立派なのではないか。住んでみたいと私も思った。ここに「スラム」的に住まうとは、一体どういうことだったか……。 ![]() 後で改めて調べてみると、1864年竣工のオルト邸は、戦時中は敵国財産として没収され、一時川南造船の所有(クラブ・ハウス)となったが、1970年に長崎市が買収、保存修理工事の後、グラバー園に組み込まれている(即ち、小学生時の私は見学していないわけだ)。久本氏の母の義父が川南造船に勤務していたようだ。 父と母と私たちが東京を脱出、長崎の祖父をたよって南山手の高台にあるオルト邸に移り住んだのは、原爆が落とされてから7カ月か8カ月たった頃だった。私はまだ生まれて間もなかった。(略) このオルト邸は、(略)堂々たる石造建築で、十数本の円形の石造列柱がベランダの周囲をとり囲み、噴水のある広い前庭からは、長崎港が手にとるように望まれた。邸には私たち家族を含め、つごう四家族が住み着いていた。敗戦によって断ち切られたそれぞれの生を乗せて船出した船のように、そこには敗戦後の混沌とした気配がまだ色濃く支配していた。 邸の住人たちは多様で、悲しくなるほどおかしかった。(略)ていのいいスラムであった、と思う。 と、久本氏は「長崎──わが南山手」(「朝日新聞」1983年7月23日。『久本三多──ひとと仕事』〔葦書房、1995年、非売品〕に再録)に書いている。 確かにオルト邸からは港がコンパクトに一望でき、その昔、この海に突如南蛮船が現れたとしたならば、これから一体どういうことが起こるのか、昨日までの日常が根底からひっくり返る事態となるだろうことが、まずはビジュアルに看取・予測できる──そういう場所であり続けたはずだ。 頑丈な石造りの洋館で寄り合い所帯のようにして暮らす4家族。子供たちは、邸の背後に稜線をなす鍋冠山(なべかんむりやま)に「巣」を作り、「秘密のこと」に耽る。「私たちは大人たちの現実とは別系統の、むせるような現実のなかにいた」 ──そうしたことすべての光景が、久本氏の言う「スラム」だったのだろう。 邸には高校を卒業する頃まで住んだ。たて続けに肉親の四つの死に出会った。家族が崩れてゆくという予感が兆した。 家族の崩壊が完了したとき、住みなれた邸を出た。隣人たちもそれぞれの感慨と思惑をもって去っていった。10年ほどたって一度だけ立ち寄った。暖炉のある私の部屋をのぞきこむアンノン族を見て、いやな感じがこみ上げた。もう二度と来るまいと思った。〈邸〉よ崩れよ、と思った。(同前) ![]() 「アンノン族」(死語か?)の好奇の視線に曝される “実家”、そして「悲しくなるほどおかしかった」幼少年期の暮らし。 なお、ちなみに書けば、私が中学・高校の間住んだ実家(北九州市戸畑の町工場)は、父の死後しばらくして手放した後、ラブ・ホテルに生まれ変わり、現在も営業している(きっとかつてのアンノン族風の若人の憩いの場でもあり続けてきたことだろうが、〈ラブ・ホテル〉よ崩れよ、とは私は思わない)。 ** 詳しくは書かないが、山本作兵衛さんのことその他、何故かこのところ久本三多氏を思い返すきっかけとなる話題や機会が多い。 ここでついでながら、上記遺稿・追悼文集への私の寄稿を全文再掲しておきたい。私にとって大事な文章だ。18年前──葦書房を離れて10年近く経って書いたものだが、この時点からすればもう一回立場が変わった(再独立)だけで、今でも何一つ書き換えたい部分はない。 「早速ですが、貴君、入社ご希望の件、小社といたしましていろいろ検討の結果、ぜひとも貴君に小社のスタッフに加わっていただきたいという結論になりました。従って、万一貴君の方で翻意せぬ以上、これが小社の最終決定という風にご理解下さい」 という書き出しの、速達で出された手紙を久本さんからもらったのは、1976年10月のことだ。葦書房用の原稿用紙に認められたその手紙は、簡潔明瞭過ぎる故にどこか有無を言わせぬ意志を感じさせ、受け取った者をややたじろがせるような筆法をもっていた。その年の夏、大学4年生だった私は、社員採用の予定はないだろうか、と葦書房を訪ねたのだが、2カ月後東京の下宿先に届いたのがその手紙だった。 翌年3月より私は、初めて福岡市で住むことになった。当時の葦書房スタッフは、久本さん、福元満治さん、そして現在一緒に仕事をしている西俊明だった。 事務所は、中央区舞鶴の保護会館という木造二階建の古い建物の中にあった。近辺には、表通りに面して民家がまだあちこちにあり、そういった家屋の一階部分を改造した、雑然とした構えの酒場が点々と営業していた。我が先輩たちは夜な夜などこかの店の一隅に陣取り、日中の寡黙さが嘘のように議論や立ち回りを繰り広げるのだった。付近一帯が「親不孝通り」と呼ばれ始めるのは、数年後ことだ。 ●1977年頃の葦書房メンバー ![]() 私はと言えば、念願叶って出版社に入社したものの、山本作兵衛さんの『筑豊炭坑絵巻』や石牟礼道子さんらの本を出し、全国的にも名が知られ始めた硬派の出版社というイメージと、地元福岡の郷土史的なものや様々な自費出版を主たる内容とする日常業務との間に、ある種の落差を感じてとまどいつつ、自分が一体どういうものを出版したいのかも皆目掴めていなかったので、ともかく目の前の原稿に取り組むしかなかった。 そういった一時期、よく私は、久本さんに呼び出された先の喫茶店で同じ趣旨の叱責をくらった。それは、「あなたも、もうよく分かっていると思うけれど、ウチの会社にはパトロンなんかがいるわけじゃないんだ……」といった話であった。おそらく、大学を出立ての、とにかく一人前の編集者になりたいという思いだけで日々をこなしている若造に、久本さんは時々我慢ならなかったのだろう。もちろん、金のことで叱咤され、何を考え、何をしようとしているのかを問われ続けただけでなく、それこそ「箸の上げ下ろしから」という言葉の内実がどういうものであるか、身をもって味わった。 数年続いたであろうそのような状況下、久本さんの言葉の中でも忘れられないのは、「隣りの奴に関心をもて」であり、「僕はあなたより感情が濃いんです」というものだ。 実は、私は、葦書房在職中にも一通、久本さんから手紙をもらっている。これも速達の赤いスタンプが押され、一旦貼った切手を剥がした跡のあるその封書を、結局久本さんは直接私に手渡した。彼は、小さな事務所で毎日一緒に仕事をしている “隣りの” 人間に手紙を──ひょっとしたら速達で──出すようなところのある人だった。 私に対する “いらだち” が頂点に達していた時期だったようで、その手紙には、「私がつまづいている石は、偶然によってであれ、共に仕事をしている5人の関係に関するある夢の如きもの、です。絶対的な個人そのものであり、絶対的な関係そのものです。(略)昨晩の一件に関し、あなたから何らかの話がなければ、私は、私の中に燃えているものをここらで断念させようと思います。試みとしての葦書房への思いを断ち切ろうと思います」と記されていた。 人間関係に関するある夢の如きもの、絶対的な個人、絶対的な関係、試みとしての葦書房……。ルール違反だと言われることを承知で、すでに対話することの叶わない人からもらった手紙の断片をあえてここで持ち出し、その語句について云々しようとするのは、私の中に在る久本三多という人間に対する想いの核心部分に、それらがゴロンと横たわっているからだ。 「より感情が濃い」とは、つまり、相手が自分のことを想うよりは、自分が相手のことを想う度合いのほうが深いのだ、との謂(いい)だろう。そして、そういった想いの深さに見合う絶対的な関係をどこまでも求め続ける絶対的な個人であろうとすることが、きっと、久本さん自身の生き方の原像であり、それら絶対的なものたちの切り結ぶべき場が、(当時の)久本さんにとっての「葦書房」であり、「出版」であったのだろう。 そういった “絶対性” への夢見は、多くの場合、相対する者をも呪縛する方向へと働く。何故なら、そこでの“絶対”とは、人間世界の事情をすべて「感情(の濃さ)」に還元しようとする根深い憧れであるからだ。行く手に仄見えるのは、いわば「ニヒリズムへの道行き」の図である。 結果として、その “呪縛” を超えるのに10年かかったが、出版のイロハから教わったことは言うまでもなく、強烈な熱情と冷徹とを併せもつ人格に接した歳月は、誰にも譲れない私の貴重な財産だ。 ともかくまず一つの業である、という自明性に根差した “健康さ” をどこかに置き忘れてしまう時、書き手や読者や本づくりに関わる人間たちの営みを見失い、それこそ自らが生み出した虚像や偶像に足を掬われてしまう──「出版」がそういったものであることも、ほかならないその10年で学んだ。 「貴君ご入社に際しましては、ぜひとも2、3年などとは考えないで下さい。願わくば、葦書房興亡の辛酸を、ともになめるだけの度量と覚悟を、というのが、私の秘かなる思いです」とは、久本さんから最初にもらった手紙の追伸であった。その「思い」に私は応え切ることができなかったが、自己の夢見の──長さ、では最早なく──深さにおいて、なお久本三多を内なる他者として捉え続けていくことで、私の責務を果たしたい。 ●[『久本三多──ひとと仕事』より転載、1993年6月、中島一尊氏撮影] ![]() 『筑豊炭坑絵巻』が岩波文庫(『筑豊炭坑絵物語』)に収められる時代となった。もう、久本三多氏がカリスマ化されることもないだろう。来年は没後20年。私も既に久本氏の齢を十幾つか超えてしまった。 ** 予測通り、夜の繁華街は凄い人の流れだった。いくらか危惧しつつもやっぱりチャンポンをと思ってしまい、これまた予測通りと言うよりそれを超えて、チャンポンでビルが建ったと思しき(観光バスも停まっていた)「四海楼」は勿論、中華街の料理店のどこも──昼間も入れなかったが──夕方6時には既に予約満杯で「オーダー・ストップ」となっていた。 結局、福岡市にもチェーン店があるらしい台湾系の「老李」(の階段)で40分程待って食べたが、生まれて初めて、私の大好きなチャンポン(に責任は全くないが)そのものを、「それほどの食い物か!」と罵りたい感情に囚われた。 ![]() そう言えば、元気な時の久本さんと出会った最後は、全くの偶然のことに、赤坂(福岡市中央区)にある「黒田屋チャンポン」(この店は舞鶴にあった時代から “二人の” 行きつけ)の店内だった。後から入った形の私に、久本さんは、あの大きな切れ長の目をサッと投げてきた。二人別々に、黙々と麵を啜り込んだ後、久本さんは私を隣の喫茶店に誘った。ともかくも相手をそらすことのできない人だった。 [2/18最終] #
by karansha
| 2013-02-12 20:54
| 編集長日記
2013年 01月 28日
その朝、至急に「大切な」手紙を書く必要があった。なにか、計画の正否をかけた手紙だったのだ。ところがわたしは、そのかわりに恋文を書いている。それも、けっして投函することのない恋文を。世間に押しつけられた陰鬱な務めも、理性的なこまめさも、反射的な行動も、すべてを嬉々として放棄したわたしは、輝かしい「義務」に、愛の「義務」に課せられた無益な務めの方をとる。ひとしれず狂気の振舞いに出る。おのが狂気のただひとりの証人となる。(後略)
これはロラン・バルト(フランスの哲学者・批評家)『恋愛のディスクール・断章』(三好郁朗訳、みすず書房)に収められた「肯定──手に負えぬもの」という章の、有名な一節。誰しもきっと思い当たる時期があったことだろう。 本書は、古今東西の「恋愛」に関わるディスクール(言述)を拾い集め、その断章群にタイトルを付しアルファベット順に排列したものである。バルト自身の体験と思われるものの他に、ゲーテやハイネ、ニーチェ、プルースト、ブレヒトらの言葉が掲げられる。 例えば芭蕉俳句、「名月や池をめぐりてよもすがら」を取り上げ、バルトは「悲しみを言うのに、この『よもすがら』ほどに効果的な間接表現はないだろう」と書く。 そして、自分もやってみよう、と俳句的な表現で “時間の中を漂う心持ち” を表そうとするのだが(その一つは「この朝に港は晴れて/うごきもやらず/去った人を思う」)、自身が言うように「いずれもみな、なにも言っていないか言いすぎているかのどちらか」となり、日本語ネイティブたる私たちも、俳句のすこぶる抽象的な短詩世界の味わいを再確認させられることになる。 ところで、私はこの本を多分、一度しか通読したことがない(頭から通して読まなければならない本でもないが)。だが、本棚の一番目につきやすい所に立てていて、これまで何度となく繙いてきた。 それは、年に数度、得体の知れないメランコリーに陥ることがあり、その時、以下の断章に触れて佇むためだ。 嫉妬するわたしは四度苦しむ。嫉妬に苦しみ、嫉妬している自分を責めて苦しみ、自分の嫉妬があの人を傷つけるのをおそれて苦しみ、嫉妬などという卑俗な気持に負けたことで苦しむのだ。つまりは、自分が排除されたこと、自分が攻撃的になっていること、自分が狂っていること、自分が並みの人間であることを苦しむのである。(「嫉妬」) ここには、人世の少なくとも四半分の真実が語られているだろう。 それにしても、「嫉妬」に関してこのように記述することのできる感性と知性にこそ、やはり嫉妬してしまう。あの、誰もが必ず憶えのある根本的なネガティヴ感情──嫉妬について、これ以上深くて美しい考察はない。 [同書カバー装画] ![]() 以上は、少し前、私が寄稿している雑誌のブックレビュー特集号に提出した原稿の再掲。 幾つになっても、ふと、誰かのことを羨んだり妬んだり、そのことを沈めたまま乱反射のごとき攻撃的な気分すら持っている自分に気付くことがある。自らの卑小さに向かい合う時間。 まさに先週もそうだった。──そうした時、上記「嫉妬」の数行を思い返す。話は嫉妬のことだが、言葉の射程はもっと深くて遠い。 [この項、永遠に書き掛けのような] →花乱社HP #
by karansha
| 2013-01-28 14:11
| 編集長日記
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